奇跡の映画 カール・テオドア・ドライヤー セレクション
2022-03-12~16
とうとう地元の映画館にカール・ドライヤー特集が回って来た。自分は基本的に映画館でしか映画は見ないので、この時期に(未だコロナ禍にある)都内に出なくてもすむのはありがたい。地元の映画館(市立の映画館というのは珍しいと思う)を応援する意味もある。「奇跡」「裁かるゝジャンヌ」「怒りの日」「ゲアトルーズ」の4本全てを日替わりで見ることができた。
カール・ドライヤー監督(1889年〜1968年)の映画で、これまでに見たことがあるのは「裁かるゝジャンヌ」だけだ。たぶんアテネフランセでの上映だったと思う。とにかく圧巻の映画だったことだけは覚えていて、文字通り逃げ場の無いジャンヌの「顔」(バストショットでないまさに顔だけ)に迫る、悪趣味なまでの執拗なカメラワークは、今となっては手狭となったスタンダード画面の4:3の画角が、まるでこの映画のために開発されたかのような、そんな妄想すら許容される映画だと言える。
1928年製作の「裁かるゝジャンヌ」には謂れ(曰く?)があり、その内容が、つまり教会と異端審問官を告発するとも取れる内容が故に「改変」を迫られ、さらにはオリジナルのフィルムが火災によって2度までも消失されている(事故なのか?…)。1980年代に入り新たに発見されたオリジナルネガによる「正しい」映像が公開され、自分もその版を見ているはずだ。今回の特集では新たにデジタルリマスターされたものが上映されている。
これらカール・ドライヤー監督の作品を4本一気に見て改めて気づいたことだが、それらは宗教的かつストイックな映画だと思われがちながら、実際には「奇跡」にせよ「怒りの日」にせよ、多分にエンターテイメント性に富んだ創作であった。
教会の宗教者たちによる醜悪なミソジニーとハラスメントに耐える19歳のジャンヌ(ルネ・ファルコネッティ)は大きな目をさらに見開き、その目からハラハラとこぼれ流れ落ちる涙に見る者は戸惑い、そして心を揺さぶられることだろう。だが監督は確信犯なのだ。ジャンヌの身体が炎に焼き尽くされ、その魂が救済されるやいなや極度に狭い映画からも彼女は解放されるのだが、まさにその瞬間、彼女に心を寄せる群衆が火刑台のある城内になだれ込むという完璧な演出に、涙を留める術を失ったのは自分ひとりだけなか。無声映画の、いや無声だからこその傑作である。
「怒りの日」(1943年)も「奇跡」(1954年)も宗教映画であり、端正でストイックな画面構成に支配されてはいるが、ともに見ようによってはホームドラマのように展開する物語である。同じくスタンダード画面なのだが有声映画でもあり、「裁かるゝ…」の時ように「息ぐるしさ」を演出するそれではなく、カメラをパンして視線を横へ横へと移動させることにより、画面の外の空間の存在、ひいては「神」に対する接続をも可能にする。もちろんその横方向の構図・モチーフの配置に対する緻密な思慮と、モノクロ映像を超越するまでの色彩設計の巧みさが、物語の完成度を押し上げていると言えよう。
「奇跡」は、大農園を営むボーオン一家をめぐる伝統的な(今となっては抑圧でしかない…)家族制度と信仰の欺瞞について描いた映画である。自らを救世主だと信じているが故、家族からは厄介者ではないものの「可哀想な」目で見られていている次男ヨハンネス(ブレーべン・レーアドルフ・リュ)と、長男の嫁で信仰心の厚いインガー(ビアギッテ・フェーダーシュピール)がプロット上の主要人物ではあるが、正直なところ特定の誰かが主人公として描かれるわけではない。よく考えると物語としては成立しない、物語から乖離した物語形式である。
一方「怒りの日」は魔女狩りをテーマにした映画で、牧師のアプサロン(リスベト・モーヴィン)と、後妻で年若く美しいアンネ(リスベット・モヴィーン)、そしてアプサロンの母親を加えた同居する3人を巡る話である。まあすでに問題が起きそうなシチュエーションだが、そこに先妻の息子マーチンが戻ってきて…という話である。アプサロンの信仰上の苦悩と死、魔女。確かにアンネは息子マーチンを誘い不貞をはたらくのだが、そこから導かれる「結論」はといえば、彼女が自分を魔女と認める限りに於いて「宙吊り」のままなのだ。嫁と対立し息子を守ろうとする「母性」とはなかなか恐ろしいとは思うが、その母親が物語の勝者というわけでは決してないところが怖いのだ。
1964年製作の「ゲアトルーズ」は、ドライヤー監督の遺作であり、やはり彼の最高傑作と言って余りあろう。同じくモノクロ映画だが、画角はスタンダードよりやや広いビスタサイズだ。これぐらい画面空間に余裕があれば映画の可能性はだいぶ拡張する。「カットバック」はゲアトルーズ(ニーナ・ペンス・ロゼ)と地位のある夫との関係の「ずれ」を可視化する。あるいいは「鏡」を使った演出。その「鏡」の所有者である詩人で元恋人と、その「鏡」の中に見事に写ってみせるゲアトルーズの像(虚構)。
それにしてもドライヤー監督最後の映画にして、とうとう神の存在は問なくなったわけだ。だがそしてテーマは「愛」なのである。繰り返すがこれがドライヤー監督の遺作であり何よりも傑作である。そして最後のシーンで示されるように誰にも所有されないこと。それは何よりも「はれやか」である。
ありがとうございます。サポート頂いたお金は今後の活動に役立てようと思います。