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太陽と桃の歌/カルラ・シモン監督
2025年最初の映画日記はカルラ・シモン監督の「太陽と桃の歌」にした。2022年ベルリン国際映画祭の金熊賞受賞作品。映画の原題は「ALCARRAS」となっており、カタルーニャ地方にある小さな村「アルカラス」で三代にわたって桃農園を営んできたソレー家の「夏」の出来事を描いた物語である。
三代の大家族。グローバル化された経済社会に於いて、昔ながらの農業形態が圧迫されていることも事実である。しかしスペインという国に於いて、それは彼らの「民主化」以降の歴史とも通底する。「匿った/匿われた」というのはまさにその話であり、小作農家のソレー家が農地を得たのはまさにそれが理由なのだ。それから三世代を経て過去の「記憶」は確実に抹消されようとしている…。
さて、彼らアルカラスの大家族に突然の衝撃が轟くのは夏、桃の収穫の季節である。地主は所有する土地(つまりソレー家が占有している農園)を整理し、新たに太陽光パネルを設置するという。その土地はソレー家の先代ロヘリオ(ジュゼップ・アバッド)が、やはり先代の地主から「友好的に」託されたものなのだが、当時の慣習から両者は契約書類を交わさなかった。それ故に桃園を継いだキメット(ジョルディ・ プジョル・ ドルセ)に土地の使用権を行使する立場にはないことは明らかであろう。キメットに託されたた選択は「立ち退き」あるいは「パネルの委託管理業務」のいずれかである。
もちろん環境問題と経済活動とは不可分であり、自然エネルギーへの転換も大企業の論理が潜んでいる。
映画には農民たちによる「抗議活動」の場面がある。初めは地主との微妙な関係から彼らとは距離を置いてきたキメットだが、収穫の夏の季節が終わり地域の祭(収穫祭的な意味があろう)が終わると、彼と息子もその活動に参加することになる。彼ら農民側の訴えは、卸売業者の「買い叩き」によって彼らの生活が逼迫されているだけではなく、農業収入に頼ることができない地主もまた被害者であり、農地の活用方法を再考せざるを得ない状況を作り出しているのだと主張していた。なぜ豊かな農地が太陽光発電に置き換わるのか、その先の「連なり」について、むしろ問われているのは私たちの方ではないのか。
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「太陽と桃の歌」という配給会社が名付けたタイトルは、文脈的には間違ともいえないが、サイトのグラフィックが醸し出す(いつものように恣意的な)「甘さ」については若干「場違い」とも言えるだろう。とはいえ、カルラ・シモン監督は前作「悲しみに、こんにちは」と同様、今回の映画でも「少女」という内的存在を映画内で際立たせることに成功している。
監督自身の「目」でもある末っ子イリス(アイネット・ジョウノウ)の眼差し(逆に双子の男の子たちには特権/役割が与えられていない)、あるいはその拡張でもある10代の長女マリオナ(シェニア・ ロゼット)。その「目」、「家族」の繋がりを超越的に見つめる彼女たちの眼差しは、家父長的な家族の在り方と行く末についても問うているだろう。
小作制度、家父長制度、新自由主義経。その水脈としてのスペインとヨーロッパの歴史。そこまでを含み込んで「ベルリン」で評価されたこの作品が見えてくる。そして、ソレー家の若者たちの決断とは。
監督:カルラ・シモン
出演:ジュゼップ・アバッド | ジョルディ・ プジョル・ ドルセ | アンナ・ オティン
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