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「ソビエト時代のタルコフスキー」より『鏡』

2021-02-05鑑賞

承前。『僕の村は戦場だった』に引き続き「ソビエト時代のタルコフスキー」特集の二つ目『鏡』(1974年)を見ました。『鏡』は自分も作品で引用しているので、ブルーレイで繰り返し見ている作品でもあります。『僕の村…』の方は、劇場がご高齢の映画ファンで占められていた感じがありましたが、今回の『鏡』には若い人が多く見に来ていました。良い傾向です。もっともここは映画学校がある街なので、ほぼそこの学生さん達なのだろうと思いますが。

この映画が「難解」というのは、もちろん自伝的なその「記憶」が縦横無尽に交錯するからなのですが、「筋書き」であれば、ウィキペデアに驚くほど(呆れるほど?)詳細に書かれていて、気になるようならそれを読めば良いでしょう。要するにアンドレイ・タルコフスキー監督と「母親」との「共依存」の関係を描いた映画といってよいでしょう。

劇中で朗読される「詩」は「父親」である詩人のアルセニー・タルコフスキーが書いたものであり、またそれを実際に劇中で読み上げているのがアンドレイ・タルコフスキー監督自身ですから、ここでは劇中の「母」マリアを軸にして「父」と「私」、役の上でのアクセレイと監督本人であるアンドレイが「鏡像関係」になっており、また「妻」ナタリアと「母」マリアと、アレクセイとその「息子」イグナートも、それぞれ同じ俳優が演じていることからわかるように、同じく「鏡像関係」を取っています。映像を見るのは(同じ俳優である故に)難儀ですが、考え方は分かりやすい。

今回あらためて、劇場の大きな画面でこの作品を見て気づいたのは、「妻」ナタリアと「私」アクセレイ、「息子」イグナートと「私」アクセレイが出てくる場面(つまり「私」の「現在」が描かれた場面です)を、映画の中心軸として考えれば比較的に映画的な意味を受け取りやすいということ。

それから、おそらく「私」アクセレイと年老いた「母」マリアとの「電話」での会話。ここは両者ともの「像」が画面に現れない場面なのですが、印刷所の校正係時代の「母」の友人の「死」が、母親側からの息子との関係の「和解」として重要なのだろう、というあたりでしょうか。

別場面として、若き日の「母」の仕事場でのエピソード、雨の中を「校正」の間違いを確認しに仕事場に戻ってくる場面が描写されていますが、つまり「私」自身が「知らない」出来事として、母の友人の意外なほど辛辣な言動が「母親とその夫」、つまり「私」から見た「母と父」との関係性に関わる無意識の「固着化」の要因となっていたことが読み取れました。これは意外に重要かもしれませんね。

監督:アンドレイ・タルコフスキー  
出演:マルガリータ・テレホワ | オレグ・ヤンコフスキー

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hideonakane
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