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夜の外側 イタリアを震撼させた55日間/マルコ・ベロッキオ監督

マルコ・ベロッキオ監督(1939年生まれ)の「夜の外側 イタリアを震撼させた55日間」を見る。

1978年、冷戦下のイタリア。キリスト教民主党の党首のアルド・モーロが、極左武装グループ「赤い旅団」に拉致された「アルド・モーロ誘拐事件」。その顛末を巡る「政治」の混沌を描いた前後編6話・計6時間からなる大作。自分は今年一番だと思う。凄い映画だ。

戦後、イタリアが共和制になって初めての選挙(1946年)で、アルド・モーロ(1916〜1979)はキリスト教民主党から初当選を果たす。以後1959年に書記長に就任、要職を経て1963〜68年と74〜76年と2度首相を務る。敬虔なカトリック信者のアルドは、首相在任中はバチカンとの関係を保ちつつ、中道左派の立場からイタリア社会党とも連立を組み与党勢力の維持に務めた。さらに、冷戦下にて若年層の失業問題などの不満の受け皿として躍進中のイタリア共産党(党としてソビエト共産党からの離別を図っていた)との協力をも模索し始めていた。

真摯で粘り強いアルドの「交渉力」の賜物ではあったわけだが、当然ながら党内から強い抵抗にあった。党内右派勢力で後の首相となるジュリオ・アンドレオッティも強く反発し、またこの事態にはアメリカも警戒を強めていた。そして「歴史的妥協」と言われた「アンドレオッティ内閣」の信任決議のその日に、アルドは「赤い旅団」に誘拐され、55日後に彼らに殺害された。以上がこの物語の骨子となる。

映画の構成は、前編1話の導入で主人公アルド・モーロ(ファブリツィオ・ジフーニ)の視点から、以降2話が内務大臣のフランチェスコ・コッシーガ(ファウスト・ルッソ・アレジ)、3話ではローマ教皇パウロ6世(トニ・セルヴィッロ)の側から「事件」の顛末が語られる。後編は日を改めて見たが、4話が「赤い旅団」の女性メンバー・アドリアーナ・ファランダ(ダニエーラ・マッラ)、5話でアルド・モーロの妻・エレオノーラ(マルゲリータ・ブイ)と二人の女性が登場し、そして6話をもってこの「物語」の総括となる。

もしあなたがイタリア人であれば、皆がこの「アルド・モーロ誘拐事件」の壮絶な結末について知るはずだろう。だが、ベロッキオ監督は敢えて解放されたアルドが3人の仲間(政敵?)と病院で対面するシーンを映画の冒頭に据えた。モーロの目に映るのは、中央にアンドレオッティ首相、右手にザッカーニ書記長、そして遅れてフレームに収まったのがコッシーガ内務大臣となる。…「無能の」というよりは、彼らこそがアルドを政治的「生贄」と張本人なのである。

それは「フィクション」の創作というよりは、「物語」に「虚」を仕込ませたベロッキオ監督の策略だといえよう。もしアルド・モーロが生きて解放されたとしたら…世界はまた別の道を歩んだのかもしれない。実際に、バチカンにしても国民世論にしても「モーロ解放」支持で動き始めていたはずなのだ。アルド自身が提示した「裏取引き」は、結果的にはアンドレオッティ首相の「思惑」によって潰された…これがベロッキオ監督の考える限りなく史実に近い「物語」で、いずれにせよ、この冒頭の3ショットが6章からなる「物語」を貫く「鍵」となる。とはいえベロッキオ監督は、この史実を4人の「男の物語」に集約することはない。

イタリア共産党を連立内閣に加えるため、アルド・モーロが奔走した結果、党内の政敵アンドレオッティを首相に据える「歴史的妥協」となった。だからアルドを救う「義」があるのは、アルド直系の内務大臣フランチェスコ・コッシーガだけである。しかし彼が事件の最初期に、執務室の抽出しに 「3通り」の「辞表」を忍ばせたように、その勝負は既定路線であった。アルドの腹心でありながら、この55日間一度もアルドの妻の元に顔を出さなかった(出せなかった)、気弱で神経質な男はまた、内務大臣としてアメリカ国防省から派遣されて来たピチェニックという誘拐事件のスペシャリストと対峙することになる。

敬虔なキリスト教徒で、キリスト教民主党の党首であったアルド・モーロは、もちろんローマ教皇パウロ6世とも旧知の間柄であった。アルドの「誘拐」に心を痛めた教皇は、独自のルートで「赤い旅団」に接触し、多額の身代金(200億リラだったか)を積み上げ、彼の「救出」を試みる。だが、それを阻んだのは実際にはコッシーガを始めとする政府側の「思惑」であったのだ。

後編を迎え、この「物語」に立体感を作り出したのは二人の女性、「赤い旅団」の女性メンバーであるアドリアーナ・ファランダとアルド・モーロの妻エレオノーラの存在である。

小学生の娘を持つ女性ファランダが夢見た「革命」…第4章では、革命志向で過激な直接行動(テロ活動)を行う新左翼の組織(それはどの国でも似たような組織だったはずだ、念のため)「赤い旅団」と女性であるファランダとの関係が描かれる。主要メンバーの「女」であり、「誘拐事件」では男たちの制服の手配など後方支援という立場でしかないことに不満を感じていた。自分も「革命」のために家族を棄てて戦う同志であると。だが、男たちの大義は既に「革命」でも「労働者の蜂起」ですらなく、革命家である自分に酔う自己愛であり承認欲求以上のものはない。「人質」の尊厳についても…ファランダは男たちと異なる視点を持っていた。

男たちの大義という点では、「赤い旅団」も人質/仲間を救うべき「政府」も、何ら変わるところは無い「組織」の論理である。第5章で描かれるのは、アルド・モーロの「妻」エレオノーラの、誘拐事件以後の「戦い」についてである。守るべき相手は当然「夫」アルドではあるが、「戦い」の相手は、仲間であり味方だと信じていた「彼ら」であると気づく過程である。

エレオノーラとアルド夫妻の関係性については、第1章での政治家アルド・モーロの人物描写を引き継いでいる。夜半、家に帰り着いたアルドは、一人で卵を焼き食事を取る。その後は書斎で新聞を読み、世論の動向に目を向ける。アルドの国家への献身は、夫婦の向き合う時間に犠牲を強いる。結果的に人生の終盤を迎えた二人の私生活は「ぎくしゃくしたもの」になっていた。アルドは孫を家に引き留めることで(子育ての終わった)エレオノーラの機嫌を取り、夫婦二人の「場」に流れる緊張関係を緩和しようとする。

エレオノーラとアルドの関係は、私的領域と公的領域の混在が故の混乱であったわけだが、「夫」の突然の不在/空白によって、彼女は「イタリア政府」によって外部との交渉を遮断され、5人の子供たちとともに自邸に「幽閉」されることになる。主体が変わってなお、私的領域が公的領域に侵犯される状況下は、逆にエレオノーラに夫アルドの「存在」を再認識させることとなる。手足を奪われた「夫」の代わりに、「夫の」書斎/執務室から引かれた電話回線を使い、「政府」に「救出」の指示を出す…。「正義」とは何か。

そういえば、アルドの直系で内務大臣(警察権を司っている)のコッシーガが頼りにしていた(と思われる)アメリカ国防省のピチェニックは、「事件の解決」を見ずにアメリカに帰ってしまうわけだが、ということは、おそらくマルコ・ベロッキオ監督が考える「アルド・モーロ誘拐事件」の「黒幕」は、アンドレオッティ首相でもなく、要するにアメリカという国家ということになるだろうか。いずれ公文書から明らかになる時がくるかもしれない。

それにしてもこのフランチェスコ・コッシーガという「男」は、アルド・モーロの死後、アンドレオッティの後を継ぎ、1979年8月に第36代の首相に就任したという…。マルコ・ベロッキオ監督渾身の一作であり、かつ傑作である。ぜひ見られたし。「オッペンハイマー」の数倍は素晴らしい作品だ。

監督:マルコ・ベロッキオ  
出演:ファブリツィオ・ジフーニ | マルゲリータ・ブイ | トニ・セルヴィッロ


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hideonakane
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