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林檎とポラロイド/クリストス・ニク監督

2022-04-23鑑賞

映画のことを書くのは久しぶり...いや、しかしカール・ドライヤー特集の4本とか、レオス・カラックスの「アネット」とか見てはいたのだけれど、正直それらについて何かを書く時間が全く無かったのだ。

先週末、「林檎とポラロイド」を見た。クリストス・ニク監督はギリシャ出身で1984年生まれ。長編1作目だが既にキャリアも十分だ。突如記憶を失う「奇病」が蔓延する世界の物語で、美しい画面と真面目で静かなコメディである。

冒頭のシーンで「スカボロフェア」が流れる。後から思い出してみれば、この歌の世界観が意識の低いレベルで通底しているようにも思える。そもそも頭を壁に打ち付けるその男がいたのはどこなのか…。

突然記憶を無くした男は病院に収容されるのだが、病院には彼と同じように記憶を無くした人々が列をなす。しかしそこで待てども、彼を迎えに来る家族はいない。記憶を失い名前を失うことは、社会とのと繋がりを喪失することであり、男は「新しい自分」として生きる「回復プログラム」への参加を余儀なくされる。「住居」が与えられ、例えば「自転車に乗る」とか「ホラー映画を見る」とか、「指令」が録音されたカッセットテープが届けられ、タスクが終了するごとに、ポラロイドカメラで「自撮り」をしアルバムに貼り付けるといった一連の「行動」が要求される。

プログラムは、ステレオティピカルな人間の行動パターンを通し「個人」へ向かう記憶の糸口を探るという、「医療プログラム」としてはやや眉唾でもあり滑稽なものなのだが、男はその指示に黙々と従う。邦題は「林檎とポラロイド」だが、英題では単に「Apples」となっていて、それが最終的には「彼の林檎」をめぐる習慣と記憶を繋ぐ「鍵」となる。そのこと自体は「写真」を撮る行為とは関係無いわけだが、その無意識下の習慣がプログラムのひとつと干渉し、ついには記憶を取り戻すことになる。スマホ画像ではなくアナログな「もの」としての写真とその装置との掛け合いが、なぜだか現在の「私たち」の感覚と響き合う。「林檎というもの」とその朽ちていく時間が、「私たち」の記憶とパラレルに移動する。

この「林檎とポラロイド」の画角が「スタンダード画面」である4:3なのは、「写真」を模した比率であるのは明らかだ。だがそれは、かつてカール・ドライヤーが「裁かるゝジャンヌ」の画面にジャンヌを閉じ込めた「それ」ではなく、また一方で「奇跡」や「怒りの日」での横移動、見るものの視線を枠外にコントロールする「それ」でもない。クリストス・ニク監督は、現代の映画では少なくなったこの「スタンダード画面」の画角を使い、「記憶」へ向かう不可能なまでの「奥行き」を強調し描写をする。ほぼ全てのカットが固定ショットであることが、逆にこの映画の持つ「写真性」を強調し人間の「記憶」の儚さを記録する。

静かで美しく、儚く悲しい映画である。機会があればぜひ。

監督:クリストス・ニク  出演:アリス・セルヴェタリス


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hideonakane
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