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そっかモネってロックだったんだ!

先週の木曜に国立西洋美術館のモネ展に行ってきた。めちゃくちゃよかった。

最初に悪い印象を書くと、有給取って、12時頃に上野に着いたのだが、チケット売り場は長蛇の列。平日でこれなのだから、日曜のお昼時とか想像しただけでぞっとする。なんやかんやで40分くらい並び、絵を観る前にすっかり来たこと後悔していた。
子ども・学生から、お年寄りまで、客層はバラバラだったが、大半は1枚の絵を1分も見ずに次に写っていた。展覧会内の1部スペースでは撮影がOKになっており、絵を観ずに写真大会にもなっていた。

けれども、「モネの睡蓮なんてどこでもみられるでしょ」とか「印象派は飽きたよ」なんて人にこそおすすめしたい展覧会だった。
(ちなみに美術館を出た16時頃には混んでいなかった。閉館前の1時間を狙ってサクっと観るのも手かもしれない。[開館時間9時半~17時半])


晩年の絵が集まった企画展

「モネ 睡蓮のとき」という企画名だが、副題の「晩年のモネ 水の景色」(フランス語)のほうが合っている内容だった。印象派の代表的な画家クロード・モネ(1840-1926)だが、晩年は白内障で目が見えなくなり私たちの知っているような淡い水色が特徴の絵ではなくなり、抽象絵画のようになっていく。ポスターにあるような「きれいな絵」もたくさん展示されているが、ぼくにはあの晩年の「どうかしてる絵」がとても惹きつけられたのだ。

たとえば釘付けになったのが↓の作品。

《ばらの庭から見た家》(1922‐1924)頃

近所の小道を描いた作品だが、ぱっと見どこに家があるのかわからない。というか何が描かれているのかわからない。緑の部分は何となく茂みなのだろうが、地面の赤っぽさは美しいというよりはさび付いた汚れのように見える。当時酷評されたのもなんとなくわかる。ぼくの前にいたマダムは「ああ、目が悪くなったんだねえ」と感想を言っていた。しかしぼくには惹きつけられた。

この絵には目が見えないことへの悲しみも諦めもない。これまでの技巧をまとめて気の向くままに描こうなんて老人の余裕もない。あるのは80歳のじじいが今目に見える世界を精一杯にキャンバスにぶちこんでやろうという、途方もないエネルギーだ。作者が自分の老いをポジティブに捉えて、率直に語るようになったとき、作品はなんて若々しいのだろう。そんなことを思った。このエネルギーはデジタルでは伝わらない。実際に行って鑑賞すべき作品だ。


生まれたからには生きてやる

現代社会ほど老いを忌み嫌う社会もないだろう。人生のピークは大学生。いつまでも若くいたい。年寄りに思われたくない。そんな空気が充満している。ぼくはそれが嫌でたまらない。

人は年を取り、老いる。その中で失うものも当然あるだろう。しかし得るものだってあるだろう。年を取ったときにしかわからない人生の味わいがなければ、生きている意味がない。

モネ展はそんな個人的な想いに答えてくれるような展覧会だった。「モネってぼやっとしてなんか綺麗な絵描く人でしょ?」と世間一般で思われているイメージからかけ離れた、時代の風潮なんて気にしないロックな画家だった。


常設展に行かないのはもったいない

最後に余談。モネ展のチケットを買えば西洋美術館の常設展も観ることができる。ほとんどの客が企画展を観たら帰ってしまっていたが、これはとてももったいない。国立西洋美術館の常設展はそこら辺の企画展よりずっと豪華だ。グレコ、ルーベンス、ミレイ、ルノワール、モネ、セザンヌ、シニャック、ピカソ……。えっこの画家もいるの!?とミーハー心をくすぐられる。タダなんだから、企画展観た後体力あまっていたら、ぜひ行って損ないだろう。※常設展だけの鑑賞は一般が500円。安い。

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