「共感的理解」を必ずしもともなわないリフレクション (伝え返し)
カール・ロジャーズとその後継者が築いたオーソドックスなパーソンセンタード・アプローチ (PCA) のトレーニングを受けたセラピストと傾聴の練習会を共にしたことがあります。私が聞き手を担当したセッションのあと、次のようなコメントをいただいたことがありました。「フォーカシングの人たちって、特定のワードやフレーズをリフレクションするんですね。PCAではそれはあんまりないかなあ」。なかなか自分自身では見えないフォーカシング的傾聴の特徴を傍から指摘してもらったことは、私にとって大きな刺激になりました。
たしかに、今までPCAの大御所の方の傾聴のデモンストレーションを拝聴した時に、逆の印象を受けたことを思い出したのです。あくまでフォーカシング指向の観点から見ればの話ですが、セラピストの応答は、クライエントの発言の核心を端的に捉えているようには思えなかったのです。言い換えれば、セラピストは、クライエントが感じているかもしれない言葉やフレーズを見積もり、その核心だけをクライアントにリフレクションすることはほとんどなかったのです。
このことは、ロジャーズ本人の残された逐語記録を読んでも同様です。ロジャーズの応答には「あなたのおっしゃっていることはこういうことでしょうか。つまり…[長い描写]…だと」とか「まだ私はあなたの言うことが分かっていないようです。…[長い描写]…ということでしょうか」といった言い回しを通して、「まだ分かっていないけど私はあなたの言わんとすることを理解したい」ということを丁寧に伝えていることが多いのです。
ロジャーズは、クライエント本人の私的世界あるいは現象的場 (Rogers, 1951) について自分なりに仮説を立て、その仮説が合っているかをクライエントに確かめてもらうというやりとりを愚直なまでに何往復も行うことさえ、まれではありません。こうしたやりとりによって共感的理解が徐々に達成されるのでしょう。
言葉とフェルトセンスのミクロな働き合いに注目して感度を育むことに専念してきた私からすると、オーソドックスなPCAの傾聴は、「人間対人間として接し、相手の全体を受け止める」という傾向がより強いという印象を現時点では持っています。
パーソンセンタードな傾聴とフォーカシング的な傾聴、もちろん両者は水と油の関係ではなく共通する面は多分にあります。しかし、傾聴をめぐる比重の置き方という面では異なる面もあると思われます。
「リフレクション」について、ロジャーズは「この用語を使うことについて、部分的には私に責任があるのだが、年がたつにつれてとても不満を覚えるようになった」 (Rogers, 1986, p. 375) と最晩年に回想しています。
一方、「リフレクション」について、ジェンドリンは次のように論じています。
ジェンドリンの論述からは、「共感を表現する」ことと「内面に生じるセラピーのプロセスを生み出す」こととは必ずしも一致しないと彼が捉えていることが読み取れます。
たしかにフォーカシング的なリフレクションには、共感的理解を十分に伝えずとも話し手のプロセスを促進させるメリットがあるにはあります。やや誇張された例ですが、次のようなフォーカシング的なやりとりを想定してみましょう。
上記の下線を引いた「ドスン」「ズキズキ」「スッ」が「特定のワードやフレーズ」、すなわち、フェルトセンスのハンドルです。こうしたハンドルとなり得る表現をリスナーは見つけ、ピンポイントでリフレクションすることを続ける時、教室でフォーカサーにどんなことが起こっていたかについて、リスナーは具体的には分からないままであることが往々にしてあります。とはいえ、今の例ではフォーカサーが気持ちを込めた言葉に関しては、少なくともリスナーはその意味を追いながらセッションが進んでいます。
これよりもさらにフォーカシング特有な傾聴の例を挙げましょう。以下は池見陽氏によるジェンドリンとのフォーカシング・セッションの回想です。セッションは彼がシカゴ大学大学院に在籍していた頃なので、1979~80年頃の出来事と思われます。
この場合、リスナーはフォーカサーが提示したハンドルの意味すら理解していません。このような種類のリフレクションをリスナーに求めたジェンドリンは、共感を表現してもらうことよりも、内面に生じるセラピーのプロセスを生み出してもらうことにより比重を置いていたことがうかがえると言えるでしょう。
同様のセッション記録とそのコメントがミア・レイセンによって提示されています。
上記の個所をキャンベル・パートンは引用し、「リフレクションのこの第二の治療的機能は、ロジャーズによって過小評価されているように思われる」と論じています。 (Purton, 2004, p. 50)
これらの例においては、共感的な理解とは明らかに異なるプロセスが聴き手側に起こっているということができるでしょう。
こうした応答の違いを支えている両者のセラピー観の違いはどこに求められるのでしょうか。現時点での私の仮説は、ロジャーズの必要条件のうち、「第6条件」にどれだけ重きを置いているかの違いではないかというものです。ロジャーズは、共感的理解などのセラピストの態度的な条件がある程度クライエントに伝わっていなければ、「セラピーの過程は始まらない」 (Rogers, 1957, p. 99) と論じています。一方、ジェンドリンは、「多くの場合、クライエントは具体的なパーソナリティ変化過程が起こった後で初めてセラピストの積極的、肯定的な態度を知覚することが可能になる」 (Gendlin, 1964, p. 136) と論じています。ジェンドリンのセラピー観が、聴き手の共感的理解が必ずしも話し手に伝わらなくともフォーカシング・セッションは始まりうるのだという発想に少なからず影響を与えているのではないでしょうか。
参考文献
Gendlin, E.T. (1964). A theory of personality change. In P. Worchel & D. Byrne (eds.), Personality change (pp. 100-48). New York: John Wiley & Sons.
Gendlin, E.T. (1996). Focusing-oriented psychotherapy: a manual of the experiential method. Guilford Press.
池見陽 (2021). フォーカシングと私:狭間での巡り逢い. 人間関係研究, 20, 67-75.
Leijssen, M. (1993). Creating a workable distance to overwhelming images. In D. Brazier (Ed.), Beyond Carl Rogers: towards a psychotherapy for the 21st century (pp. 129–48). Constable.
Purton, C. (2004). Person-centred therapy: the focusing-oriented approach. Palgrave Macmillan.
Rogers, C.R. (1951). A theory of personality and behavior. In Client-centered therapy: its current practice, implications, and theory (pp. 481–533). Houghton Mifflin.
Rogers, C.R. (1957). The necessary and sufficient conditions of therapeutic personality change. Journal of Consulting Psychology, 21(2), 95-103.
Rogers, C.R. (1986). Reflection of feelings. Person-Centered Review, 1 (4), 375-37.