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Book #10 - 研究者のための行動経済学
研究者のための行動経済学
横浜薬科大学・薬学部・准教授
谷 英典
Copyright © 2025 Hidenori TANI All Rights Reserved.
はじめに
科学の世界において、長い間、研究者は完全に合理的な意思決定者であると考えられてきました。まるで、感情とは無縁の、論理の塊のような存在として描かれてきたのです。しかし、現実はそう単純ではありません。研究者も人間である以上、感情や直感、そして様々な認知バイアスの影響を受けています。
想像してみてください。実験室で何か月もかけて取り組んできた実験が、予想外の結果を示したときのことを。研究者のあなたは、冷静かつ客観的にその結果を受け入れることができるでしょうか? それとも、何か間違いがあったはずだと、データを疑ってしまうでしょうか?
ここに、研究者が「行動経済学」を学ぶ重要性が浮かび上がります。行動経済学は、経済学と心理学を融合させた学問です。この学問分野は、人間の意思決定プロセスにおける非合理性や認知バイアスを研究し、それらが経済活動や社会現象にどのような影響を与えるかを解明しようとしています。
2017年にノーベル経済学賞を受賞した、シカゴ大学のリチャード・セイラー教授の功績により、行動経済学は学術界のみならず、ビジネスや政策立案の場でも注目を集めるようになりました。行動経済学は、人間の行動を理解し、より良い意思決定を促すための強力なツールとなったのです。
研究者にとって、行動経済学を学ぶことは、自身の研究活動を客観的に見直す良い機会になります。例えば、研究者が自説を裏付けるデータばかりに注目し、反証するデータを無視してしまう傾向があることや、研究テーマの選択や実験デザインにおいて、最初に得た情報に過度に影響されてしまうことは、行動経済学を理解することで説明できます。
また、行動経済学の応用は、研究室運営や共同研究のマネジメントにまで及びます。研究室メンバーの生産性を向上させ、適切な研究費申請を促すことにも活用できるのです。限られたリソースの中で最大の成果をあげることを求められる現代の研究環境において、行動経済学は非常に有用なのです。
最近では、行動経済学の知見を活用した「フューチャー・デザイン」という考え方が注目され始めています。これは、将来世代の視点を取り入れて現在の意思決定を行う手法のことです。例えば、30年後の研究者になりきって現在の研究テーマを評価することで、長期的な視点を研究戦略に取り入れることができます。目の前の成果だけでなく、将来の科学や社会にどのような影響を与えるかを考慮に入れた研究活動が可能になるのです。
以上のように、行動経済学を学ぶことで、研究者は自身の研究活動をより深く理解し、より効果的に遂行することができるようになります。それは同時に、科学の進歩や社会への貢献をより確実なものにする道筋でもあるのです。
本書を通じて、研究者が行動経済学の知見を活用するようになれば、学術界全体がより健全で生産的な方向に進化していくことでしょう。それは、より信頼性の高い研究成果を生み出し、社会に真の価値をもたらす科学の実現につながると私は信じています。
この本があなたの研究人生に少しでもお役にたてれば、これほど嬉しいことはありません。
第1章 行動経済学の基礎
まず、行動経済学の基礎から学んでいきましょう。行動経済学とは、人間の経済行動を心理学的な視点から分析する学問です。従来の経済学が前提としていた『合理的な経済人』という、常に最適な判断を下す理想的な人間像では説明できない非合理な行動を、実証的に明らかにしていく学問です。
従来の経済学が描いていた研究者像は、感情に左右されない論理の塊のようなものでした。しかし、行動経済学は研究室の隅々に潜む「人間らしさ」に着目し、研究者が自分の仮説を裏付けるデータに偏りがちだったり、過去の成功体験に固執したりする傾向を、明らかにしていきます。
プロスペクト理論
行動経済学の代表的な理論として、「プロスペクト理論(Prospect Theory)」があります。この理論は、人間が利得と損失を非対称に評価することを示します。具体的に言えば、私たちが100万円を得る喜びよりも、100万円を失う苦痛のほうが大きい、と感じる傾向があるのです。
では、プロスペクト理論を研究活動に当てはめてみましょう。想像してみてください。あなたが革新的だが高いリスクのある研究テーマと、革新的ではないけれど失敗が少なそうな低いリスクの研究テーマを選ぶ状況を。プロスペクト理論によれば、多くの研究者は、後者の保守的な選択をしてしまいがちであることがわかっています。
ヒューリスティック
「ヒューリスティック(Heuristic)」という概念も重要です。ヒューリスティックとは、人が意思決定や問題解決を行う際に用いる簡略化された思考法や経験則のことです。人は複雑な状況下で素早く判断を下すために、直感や過去の経験に基づいて瞬時に意思決定を行います。
膨大なデータを処理しなければならない研究者にとって、この概念は非常に重要です。ヒューリスティックの概念から、人は最初に得た情報に過度に影響される傾向があることがわかっています。例えば、図書館で本を探すとき、目立つ表紙の本にだけ意識が向いてしまい、ずっと気になってしまうようなものです。このヒューリスティックの概念は、情報処理を素早くする一方で、大切な情報を見落とす重大なリスクを伴うのです。
限定合理性
「限定合理性(Bounded Rationality)」とは、人間の認知能力や情報処理能力には限界があるという考え方です。完璧に合理的な意思決定は、人間には不可能とされています。無論、研究者も例外ではありません。膨大な情報を前にして、限られた時間・能力で最適解を導くのはとても難しいのです。それはまるで、無数にある砂粒から、最も美しい一粒を探し出すような状況といえます。従って、ある程度満足できるところで打ち切ることが必要になります。研究において、理想を追いすぎるのではなく、適度なところで妥協することが重要になる場面があるということになります。
社会的選好
「社会的選好(Social Preferences)」とは、他者の利益や公平性を考慮に入れた選択のことです。研究者コミュニティにおいては、個人の利益に加えて、学術分野全体、そして、社会全体への貢献を踏まえた行動が求められます。例えば、ある研究成果を独占するか、共有するかという選択では、社会的選好の強い研究者ほど、社会への貢献や学術の発展を優先させる可能性が高くなります。この考え方は、オープンサイエンスの推進や研究倫理の厳守にもつながっています。
本章のまとめ
本章では、「プロスペクト理論(Prospect Theory)」「ヒューリスティック(Heuristic)」「限定合理性(Bounded Rationality)」「社会的選好(Social Preferences)」について解説しました。行動経済学の知見は、研究者が自分自身の意思決定プロセスを客観的に振り返り、自分の思考癖や傾向を理解することで、より客観的かつ創造的な研究へと導いてくれることがご理解頂けたのではないかと思います。
第2章 研究計画と意思決定
アンカリング効果
研究テーマを選ぶ際、多くの研究者が最初に得た情報に無意識のうちに影響を受けてしまうことがあります。この現象は「アンカリング効果(Anchoring Effect)」と呼ばれています。例えば、ある研究者が最近注目されている特定の遺伝子についての論文を読んだ場合、その情報が「アンカー(錨)」となり、テーマ選びの際にその遺伝子に関連する研究に引き寄せられることがあります。これは、船が錨によって特定の場所に固定されるように、最初の情報が思考を固定してしまう状況に似ています。この効果は、情報収集やテーマ設定の幅を狭める原因になります。
アンカリング効果を克服するためには、広い視野を持つことが重要になります。具体的には、複数の情報源からデータを収集し、異なる視点でテーマを検討することが役に立ちます。関連する分野の専門家と議論をかわし、新しいトピックについて積極的に学ぶことで、自分自身の思考を広げていきましょう。アンカリング効果は避けられない部分もありますが、それを意識することでより多角的な判断が可能になります。
フレーミング効果
表現方法によっては、同じ内容の場合を聞いた場合ですら、人の判断が変わってしまうことがあります。この現象は「フレーミング効果(Framing Effect)」として知られています。研究者にとって、このフレーミング効果は、実験データを提示する際に大きな影響を与えます。例えば、『この治療法は70%の患者で効果があった』と表現する場合と、『この治療法は30%の患者で効果がなかった』と表現する場合です。どちらも同じことを表現しています。しかし、前者では、受け手は肯定的な印象を持ち、治療法の有効性に注目して、好意的な印象を持ちやすくなります。一方、後者では、受け手は否定的な印象を持ち、治療法の失敗率に注目して、より慎重または懐疑的な印象を持ちやすくなるのです。
このフレーミング効果を活用することで、実験結果やデータ表現をより効果的に行うことができます。ただし、その際には倫理的な配慮が必要です。例えば、実験参加者への説明では、偏った印象を与えないように中立的な表現を心掛けるべきです。また、研究者自身もフレーミング効果による偏りを避けるために、異なる視点からデータを見る習慣を持つことが重要になります。これにより、研究結果の信頼性と透明性を高めることができるのです。
確証バイアス
研究活動では、自分の仮説を支持する証拠ばかりに目を向け、それに反する証拠を軽視してしまう傾向があります。この傾向は「確証バイアス(Confirmation Bias)」と呼ばれ、科学的な探究心や客観性に影響を及ぼします。例えば、『ある遺伝子Xは病気Aに関与している』という仮説を立てた研究者が、その仮説を支持するデータばかり集めてしまい、それに反するデータを無視してしまうケースがありえるのです。
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