はじまりの線

 ハスの葉っぱに包んだ。

 変わらず頭は冴えない。腕枕している右手にヒヤリ。血だ。拭うのも面倒、そうサクリが言ったから俺は補助線一本を描き、夢再現のタスクを止めた。五日ぶりに水が使えるのだから顔を洗えばいいのに、と言うと、もう少し寝よかな、とサクリが囁く。午前四時。捕まえていないと時間は掌からこぼれる砂の速度で消えてなくなる。捕まえなきゃ。止めておかなきゃ。それが叶わなければ死はすぐに来るのさ、サクリの寝顔を眺めながら、俺は呟く。何かを忘れた、ということだけを憶えている心許なさのなか、壁の鏡面に自分の裸を映す。

「出かけるから」そう彼女に伝えハッチを開く。確かなのは老いているということ。それと、たくさんのことに気づかないということ。「私は一番じゃなきゃ嫌だから」

 相手の心のうちはいつも見逃してしまうものだから、俺はその意を汲まずただただ抱く。彼女はその思いを遂げているのか、俺の言葉はその思いを遂げているのか。それともただ流れているだけなのか。

 動力塔まで歩くと、シンタが入り口に座っている。井戸を掘ると言っていたからその用意か。どう? と訊いてくるので、わからない、と答える。
 シンタの話では、ロクサンの連中が農場の所有権を要求し始めたらしい。端末で仕事の予定を確認する。俺は炭集めを半日と畑仕事を半日だった。昨日のコンバイン整備よりは軽い労働だ。ロボットが四台故障しているから、手仕事になるのが億劫だし、補助脳にスキルをロードするのも手間ではある。  
 ロクサンをやろう。手伝わないか? シンタが言う。このままではすぐに立ちゆかなくなる、もう誰かが飢えるのをみてられない、と。どうするんだ? 〈変えようとしてはダメ。流されて〉サクリの言葉が端末に響く。起きたのか、出血は治ったのか? と返信する。サクリの言葉は絶対だ。必要があれば声をかけてくれ、シンタに言う。確かに七年は大きい。誰も争いたいわけではないのに。

 仕事はいつも通りに終わる。急いでシェルターに戻るとサクリは元気になっている。調整した夢再現が効いたのだろう。君と老いていきたい、俺は声に出して言う。毛布を捲ると新しい卵があった。彼女の横で静かに明滅しているラグビーボール状の卵。紫色と黄色に光って。今夜はゆっくり休もう、と私はいう。彼女の表情には翳りが浮かぶ。ハッチに雨が当たる音。いつの間にか俺は眠りに落ちて。

 シンタが壊された事は、次の日の朝会で報告された。彼はいくつもの死んだ卵を持ってロクサンの動力塔に忍んだそうだ。彼の最後の音楽はみんなの端末に共有される。美しい歌だ。やっぱり七年だ。シンタだったものは、蓄電池とインプラントだけが残った。老オサンドはこの件は捨て置くという。罪の赦しは葉っぱに包んで。包みが溜まったら心で燃やすの。合法クロボの煙を吐きながら老オサンドは諭すように言う。集落は怒りを流した。さっぱりと流した、そういう記憶を全員が夢に書き込んだ。また長い補助線が一本増えたのだ。

 私は、私であるこの状態にある私の状態を逃さぬようにしながら、この機会にベータという生命体との間に起きていることを記述しておこうと思う。それは、再び私がベータと融合した後の、私でもベータでもない状態の生命体に、もともとは私であった私とベータであったベータが存在していたということを理解させるためでもある。いま、私をとり戻している私は、当然、融合した状態の生命体の意識や記憶を持たない。ならば件の生命体も、私であった私、ベータであったベータの意識や記憶をはさないだろう。私の記述は、その生命体に私とベータのことを言い伝えることを目的としている。もっといえば、私とベータとこの世界について記述することを。それを融合体に伝えることで、彼はベータという生物と私という普通の地球人との存在が彼を形作っていることを知るのだ。いや、彼はこの記述を読まないかもしれない。読むかもしれない。理解しないかもしれない。すべてを理解しその状態を崩すための何らかの処置を考え出すかもしれない。彼の姿も考え方も性格もわからないのだから、こんな記述を残したところで彼の生き方に何らかの影響を与えると考えるのには無理があるのかもしれない。私が私をとり戻している──その状態にあるとき、私がすべきことが他にあるとは考えられない。そして、この記述は、次に私が私をとり戻したときに、私という存在を再確認する助けになるためのものでもある。

 サクリ。俺の腕は硬直を始めた。ナノボットが必死で再現を行っているがまったく追いついていない。現実はそんなものだ。だから俺が最後まで補助線を削除しなかったのは第一に君への思いを遂げるためだったと信じてほしい。他のことはどうでも良かった。卵にならなかった俺の言葉のゴミは溢れ始めているだろう。やがてひと筋の小川となり激しい流れで世界を溺れさせればいいなという希いだけが硬直を止めるはずだったんだ。ハスの葉をありがとう。寝顔をありがとう。
 ロクサンはすべてを奪い尽くすだろう。思いつく限りの残虐さで、無差別に、たくさんの卵を焼き尽くして。土地や農場なんていうくだらないもののために。大量の命を奪い続けるだろう。
 それでも、俺たちは赦し続けるのだろう。

 

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