奈良県の山中に静かに鎮座する、龍神と清流の聖地。
HIDEMIです。
奈良界隈のことは普段、Instagramでアレコレupしているのですが、Instagramではここまでかな、、と実はだいぶセーブしながら書いております。
奈良の秘境については、語り出したらキリがないくらい感じるものが多く、Instagramでそこまで書こうもんなら、ちょっと引かれそうで怖いです。
ここnoteの世界は、その辺りまで見たい、知りたいと思っておられる変態(笑)の生息地と推測できますので、安心して綴っていこうかと思います。
奈良の秘境「龍鎮神社」
今回は奈良県宇陀市の「深谷龍鎮渓谷」に鎮座する「龍鎮神社」について。
ここ数年で一気に知名度が増して、訪問者も増えていますし、有名人の方のSNSで見かけることもチラホラ。駐車スペースでは県外ナンバーの車を見かけることも増えました。
外界から完全に切り離されたような場所にあるにも関わらず、こんなにも人々を魅了するエメラルドの水の世界。今日はその魅力について、私なりの見解と体感を書いていきたいと思います。
龍鎮神社の由緒
まずこの龍鎮神社は同じ宇陀の「海神社」の境外末社。室生龍穴神社から、龍神を勧請したという伝承が残っている。
海神社は一説には古代、海人族が移り住んだ場所であるとも言われており、渡来文化流入の痕跡が残る古墳も存在しているようだ。
秘境と呼ぶのは失礼なくらいで。聖域と呼びたい。
実際にこの渓谷に訪れたことのある人には共感していただけると思うが、普通では絶対に辿り着かない場所にある。奈良市から1時間半ほど車を走らせた場所にあるダムの脇から山を降り、赤い橋を渡って、川沿いを山の中に入って少し歩くと、谷にエメラルドグリーンの滝壺と、石造りの鳥居が見えて来る。
誰がこんな場所を最初に見つけたのだろうか。
龍を鎮座させるのにこれ以上の絶好の場所は他に無いと、思うしかないほどの美しさである。
この場所との出会い
私がはじめて訪れたのは4〜5年前。宇陀の方面に行きたいなぁとふと思い、朝からどこか良いところはないかなと思ってGoogleで調べ、ヒットしたのが龍鎮渓谷だった。
昼には自宅を出て、すぐに向い、現地に着いた時は、美しいどころか、怖!と思った。あまりの神気に身震いが止まらず、足はすくんで、谷へと続く階段を降りる前に本気で「もう今日は帰ろかな」と思った。
圧倒的な自然というのは、怖さを感じる時がある。その後、ようやく美しさを感じる。食事で言うなら後味、みたいなものか・・。
4〜5年前は今に比べると人は少なく、自分以外に誰もいない、いわば貸切状態になることもあった。今では行きも帰りも必ず別グループとすれ違うような雰囲気になってきている。
一時はBBQの跡があったり、下流で水浴びの光景が目に入ったりと、少し心配だったが、最近は愛情を持って管理している方がおられるのかな?という気配があるほど、整えられている雰囲気がある。
あまりにも美しい清流と気配
話が少しズレてしまったが、本筋に戻ると、龍鎮の滝のエメラルドグリーンの水の、あまりにも綺麗なこと。この写真を見て欲しい。加工は一切していない。
水の綺麗なところ、といえば奈良で言うと天川村が思い浮かぶ。もはや透明を超えた透明で、綺麗すぎて「水」と呼ぶのも戸惑うぐらいだ。なるほど、これが「清流」か、と納得できる。
龍鎮の滝と天川村を比べると(比べるものでは無いのですが・・)多分、水質だけで言えば天川村の方が上質だと思う。
でも、私はなぜか龍鎮の滝壺の水ほど綺麗なものはないといつも思ってしまう。それくらい魅了されている。
なぜだろう・・と考えてみると、その理由は多分これである・・
「滝壺になんか住んでる気しかせん」
なんというか、気配を感じざるを得ないのだ。
もし自分が龍だったら。(何目線!?)
ここに住むと思う。人の目を避けれて、山奥の渓谷にちょうど渦を巻いて眠れる美しい場所があったら。そこに住みたい。
川のオープンな感じとは違う何かがある。
完全にクローズドな感じがする。
「巣」という表現がしっくりくるあの感じ。
本当に不思議な場所である。
滝には相性がある
いわゆるパワースポットと呼ばれる場所は、合う合わないという問題もあると思う。滝には陰陽があるらしく「私は陰の滝とは合わなくて、近づくと気分が悪くなるんです、、」という声も実際に聞いたことがある。
そう思うと、私はこの場所とは、徐々に調和させてもらえたと思う。最初は恐怖を感じたし、陰を感じたこともあった。(これは天候や時間帯、他のグループの波動も関係していると思う。)というか、行くたびに違うものを感じる、というのが正解かもしれない。
でも、行く回数が増す度に、いつのまにかホッとする場所になっていた。自分と向き合い、この場にいる時だけは全てを忘れてただただ自分に戻れる。こんなにも幾度となく通っているパワースポットはここぐらいで、年に5〜6回は確実に訪れている。
秋口に訪れた時には、トンボが水辺で遊んでいたのが印象的だった。近くまで飛んできて、羽根を休めている姿は、神様の使いのようにも感じられる。(「トンボは先祖の魂を乗せてくる存在」「勝運の象徴」「変化変容の象徴」とも言われている。)
しかしながら滝の周辺には美しい羽を持つ虫が多く生息している。愛媛県某所の滝に訪れた際は、天国か映画アバターの描写かのように、色とりどりの蝶々が無数に飛び交っていた。水の美しさと羽虫の美しさは比例するように思う。
通えば通うほどに、通う度に、色んな景色を見せてくれて、心身を癒してくれる自然は、本当に偉大である。訪れる度に感謝が湧いてくる。普段、人間社会・経済で過ごしていると、よほど気をつけてはいても、やはり様々なノイズが五感や思考から入ってくる。しかし自然というのは、なんと美しい感覚を交換させてくれるのだろうと、心から尊敬する。
滝と水晶の関係
とある日、ここの波動を何かに転写したいと思ったことがあり、水晶を持参して、流れる水で清めたことがある。直径20ミリのレインボークリスタルと呼ばれる天然のクラックが入った水晶だった。
また話が少し逸れてしまうが、水晶というのは、定期的に滝や清流の水にくぐらせて浄化すると良いと言われていて、これがまた、する前とする後では石の表情が全然違う。
またまたそんなの気のせいでは・・よくあるスピった話かよ。という声も聞こえてきそうだが、一度こう考えて欲しい。シャキシャキのサラダを食べたい時、レタスは一度水に浸すといい。私は数々のレストランやカフェで働いたことがあるがどの店舗もレタスは一定時間、水に晒していた。
自宅でもやはり冷蔵庫から出したままのレタスより、一度水に浸したレタスの方が美味しく感じる。(ここでの美味しさとは味もそうだが、食感とかみずみずしさ、植物としての生命力みたいなところ。)
レタスも石も、同じである。
石も水に晒すと、生命力が増す。
石を水にくぐらせると浄化される。
というのと、レタスを水にさらすとシャキシャキになる。というのは全く同じ現象である。
神話や寺社仏閣や天然石を探求していると、スピリチュアルという興味深くもあり、妖しさも漂うキーワードと必ず出逢う。
スピリチュアルとは何で
どこまでが本当で どこまでが夢なのか
嘘か誠か
見えるのか 見えないのか
ナンダカンダと色んな角度からの意見が飛び交うスピリチュアル論争だが、それ自体には嘘も誠もない。
ただ石は浄化され、レタスはシャキシャキになるという現象がそこにあるだけだ。
何を言ってるのか、わからなくなってきたのでレタスの話はこれくらいにしておいて、石は定期的に浄化したい。滝で。という話に戻る。
偶然水晶に写った何かしらの存在
そう、龍鎮の滝で水晶を浄化した。
その時は一眼レフを持っていていたので、その様子を撮影した。滝壺の水に水晶をさらした瞬間の写真がこちら。
あなたはこの写真を見て何を感じるだろうか?
感じ方は人それぞれ違うので、何を感じられたかコメントやSNSを通じて是非教えて頂きたい。
まずは皆さんがそれぞれに感じられたことが一番尊重されるべき体感なのですが、私の説も是非ここで発表させてほしい。
私はこの写真を見て、かなりゾクっとした。そのゾクっと感は、この渓谷に初めて訪れて、そのエメラルドグリーンの滝壺を目にした瞬間のゾクッと感とほぼ同じだった。
水晶の球体に集められた滝壺内の光が、クラックに反射して色んな色と光を放っている光景が、この龍鎮渓谷に漂う雰囲気を物語っている。
特にこの写真の真ん中の水晶の個体をよく見て欲しい。
何かと目が合う。
私には蛇や龍など爬虫類系の生き物の眼に見える。
この辺りが。
どうだろうか。
実際にヘビやワニ、イグアナの目をこちらのURLで確認してみて欲しい。(苦手な方スミマセン)
この滝壺の底に龍神が住んでいて、こちらを見ている姿が水晶を通して映像化されたのだとしたら、かなり面白い。占い師が大きな丸い水晶を覗き込むことのように、水晶には何か、見えないものを可視化する特別な仕組みがあるのだろう。屈折や、光を絞りこむ特性がそれに関係していると思う。
それが嘘か誠かというのはもはや問題ではなく、とにかく浪漫を感じる。浪漫はとても良いものだ。夢と好奇心と、自由を感じる。思考(というか妄想の方が近いか?)の世界というのは、自由で良い。思うだけなら、何を思っても良いのだから。この水晶に、龍の目が写っていようがいまいが、そう見えようが、いや見えないと言われようが、正直別にどうだって良いのだ。そうやって、地球を、自然を、宇宙を、自分の日常を、自由に楽しめば良い。ただ、それを人に押し付けはしない。
ただただ、この散文があなたにとって、自由な視点と、自由な発想、あなただけの浪漫を感じるきっかけになれば嬉しい。
自然の中で思うこと
世の中は正解ばかり探している。テレビを付けても(私の家にはもうかれこれ10年以上テレビは無いが)カラオケの音程が合っているか合っていないか、どちらの寿司が高級で、どちらが回転寿司か、そんなことばかりやっている。正解すればお金がもらえ、間違えば罰ゲーム。そんなものばかり永遠と見さされて、頭がおかしくならないのだろうかと本気で心配になる。
正解と不正解しか無い世界から脱して欲しい。そんなものは幻想でしかない。せっかく幻想を見るなら、本当の幻想を楽しみたい。幻想というのは2択では無い。想う人の数だけ、解がある。自分の想うことを、それがどんなバカみたいなことであっても、信じ、楽しんで欲しい。
滝壺の話から、何故かこんな話に展開してしまったが、でも、これこそがここ龍鎮渓谷で感じることなのだ。
日々の社会的な営みの中では、無意識に正解や不正解、真偽の問いを求めて、いつのまにか窮屈になっていく。そうならないようにと願っていても、そうなってしまう。それほど人の作った世の中というものは、狂気を含んでいる。
その窮屈さに限界を感じた時に、いつも何故かこの滝壺に行きたくてしょうがなくなる。ここに来ると、全てがどうでも良くなる。ただ目の前にエメラルドの水が流れている。それ以上、何も求めずにいられる。
多分これが、自然体というやつだ。
こんなに美しい色の景色を目の前にして、正解不正解、真偽など求めようがない。自然に包まれるといつも思うが、自然というのはただただ存在し、それだけでとんでもない力を秘めている。
ややこしいことを思いつくのは、いつも人間だ。
脳が、心がこんがらがった時は、是非一度、奈良のこの場所まで足を伸ばして欲しい。
滝壺の前で、その水しぶきを浴びて、音を聞いて、光を浴びて、虫と戯れ、深呼吸してみて欲しい。
そうした時間を過ごして、来た道をテクテクまた歩いて帰る。その時の体感も覚えていて欲しい。ここを訪れた人(そういった感覚に優れているタイプの)が口を揃えて言うのは、「行く道と帰る道で感じるものが全然違う」ということだ。
実際に私も同じように感じる。道中、川の中に巨石が一つポツンと鎮座している箇所があるのだが、そこが特に凄い。行き道でも「おぉ」と感じるものがある場所だが、帰り道は「ぬおおおおぉ」ぐらいに感じる。思わず立ち止まってその巨石の側で座り込んでしまう。ぜひ訪れる際は、そのポイントでも良い時間を過ごしてみて欲しい。
そしてもしもこの場所が気に入られたら、是非、一発屋で終わらず何度も通ってみて頂きたい。
通えば通うほどに、感じるものが増えると思う。
自然と心を通わせるには、奈良県内で最も良い場所の一つだと心底お勧めしたい。
さてさて、いつのまにか5000字を超えてしまった。今回はこの辺りで。この続きは皆様が実際に訪れた時に、それぞれのストーリーを紡いでみて欲しい。
ここまで読んでくださった読者の皆様、ありがとうございます。
最後に龍鎮渓谷までのアクセスや注意点を。
龍鎮渓谷へのアクセス案内
【 深谷龍鎮渓谷 】龍鎮神社・龍鎮の滝
〒633-0211 奈良県宇陀市榛原荷阪
☑︎ 車は室生ダムの駐車場(無料)に停める。
※車でさらに進んで、滝の入り口付近の赤い橋にも停車できるけど、少し狭い&Uターンがしづらい、そして車の排気を神域に持ち込みたく無いという私的な気持ち故に、私はダムの駐車場に停めて滝まで景色を楽しみながら歩く派です。
☑︎ お手洗いは室生ダムで行っておく。
※滝周辺には無し
☑︎ 滝や拝殿の周辺は神社の敷地内なので、キャンプや水浴びは厳禁
☑︎ 滑りやすいです!歩きやすい靴推奨。
☑︎ 街灯など無く、渓谷内は暗くなるのが早いです。遅くても15時くらいまでのお出掛けがオススメ。
最後までお読みいただき
ありがとうございます。
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