9年目の再会

年の瀬だからだろうか。
急に昔のことを振り返りたくなっちゃう。

普段は新曲大好き人間のはずなのに、昔好きだった曲も聴きながら移動する時間がここ最近増えた。

小学校を卒業したあたりから、外に出るときにはイヤホンとプレーヤーを離したことがない。

気付いたらそんな習慣がついて10年もたっていた。ということに今日気づいて驚いた。

10年音楽をつまみ食いしていたら、昔ハマったあの曲の作者と巡り巡って再会するなんてことがボチボチ起きている。

今日なんか一番初めに買ったCDのアーティストBURNOUT SYNDROMESに再会した。

僕がイヤホン生活を始めるきっかけになったラジオ番組school of Lockが主催していた音楽フェス閃光ライオット2010の準グランプリアーティストだ。

今日は急に聴きたくなって、BURNOUT SYNDROMESのラブレター。を聴いて帰った。

そしたらその夜のSchool of LockはゲストにBURNOUT SYNDROMES先生が来るということを知った。

気になって調べると2016年にメジャーデビューしてて、ハイキューの主題歌を3期連続でやってたらしい。

あの頃と一緒のアツイ楽曲でなんだか心が暖かくなった。

※こっから先は関係ない話なので、暇な人だけ読んでくれて構いません。

なぜにイヤホンが手放せなくなったかというと、もちろんいい音楽が世界に溢れてて、飽きる暇がなかったのもあるのだが、端的に言って「そうでもしねぇとやってらんねぇ」からだったんだと思う。

カッコつけとか抜きにして、僕は世界に希望が溢れてるなんてうそっぱちだと思っている。少なくとも僕が生まれてからの日本はそうだ。と、学校で教わった。

田舎で育った井の中の蛙だった僕は、そういうもんだと信じてた。それが今も染み付いてるのかもしれない。

だから今朝読んだ宇野常寛の堀江貴文評には違和感を持った。

https://sp.ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar1844391

可能性と突破口への手がかりは、世界に溢れかえっているのだけれども、僕たち人間がその活かし方に気づいていないだけだ──それが堀江貴文の基本的な世界観だ。

自分とは真逆だな。と思った。
でも、結論は同じだなと思った。

僕の世界観はこうだ。

この世界には可能性と突破口はとても少ない。可能性にかけてなおかつ絶え間なく努力したものだけが、突破口の先に何があるかもわからないのにその先に飛び込む覚悟のあるものだけが、何かを掴める。

そして僕はそうはなれないと思った。だから僕は世界との距離感を図りなおすことにした。耳から、目から、鼻から、否応無く入ってくる情報に飲み込まれないように、耳に栓をした。そうしないと「やってられなかった。」

外(自分以外)と中(自分)に境界をつくるために栓をしたわけだけど、ただの栓じゃなくて、栓から音が流れてたのはラッキーだったのかもしれない。音越しだと世界を「見れた」し、案外悪くないかもなと思えた。

「虚構を通してこそ見える世界がある」
それを経験則として感じてたからこそここまで来れたんだと思う。

だからさっきの世界観は訂正しないといけない

この世界には可能性と突破口は(1人の目で見ると)とても少ない。(自分で狭めた)可能性にかけてなおかつ絶え間なく努力したものだけが、突破口の先に何があるかも(人に聞いてないから)わからないのにその先に飛び込む覚悟のあるものだけが、何かを掴める(と思いこむ)。

、、、、、、、、。

今日も僕は耳に栓をして移動する。
かつて僕を支配していた世界観から抜け出しても、まだ抜け出せてない人が周りを見渡せばいっぱい居る。(正確には僕も完全には抜け出せてはいないし。)そういう人がいる限り、(そういう時には)
僕は栓をして移動する。

希望も可能性も今、ここにあるにもかかわらず、それを追い求めることが許されていない

いつか僕が栓を捨てる日を、僕はまだ諦めきれていない。




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井の中秀政
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