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「ごめんねと」角を曲がった君想う、櫻舞う坂どうか元気で

欅坂46は僕が結成当初から追いかけている最初のアイドルグループだ。出会いは20歳の時、多分に漏れずサイレントマジョリティーのMVに衝撃を受けた。そのMVは今までの僕が知っているどのアイドルのデビュー曲とも違い、強く、カッコよかった。そして、欅坂46は多くの人を熱狂させる人気グループへと成長していった。その世界観を象徴する存在、当時の最年少にしてセンター、平手友梨奈をきっかけにグループ全体の魅了に取りつかれた。だから1期生4人の卒業・脱退・活動休止のお知らせの中に「平手友梨奈」と「脱退」の文字を見たとき、かつて僕がハマった欅坂46はもうないんだと思った。残ったメンバーをがっつり応援しようというモチベーションも沸かず、ただ寂しかった。寂しさのあと、怒りも沸いてきた。この状態を作り上げたのは、誰なんだ。僕から、僕たちから欅坂46を、平手友梨奈を奪ったのは誰なんだと。でもこんな状態を作ってしまったのは僕たちオタク自身ではないかと、頭の隅では考えていた。僕は、そして一部のオタクは、欅坂=平手友梨奈というイメージを強く抱きすぎたのかもしれない。今考えればこの平手友梨奈への過度な期待が、彼女を追い込み、脱退という形で周囲が彼女を守らなければいけなくなった、もっと言えば彼女の一番近くで彼女を、そして欅坂というグループを支え続けてきた(支えてきたという表現がすでに間違っているかもしれない。間違いなく彼女たち自身もまた、欅坂を作り上げ、受け継いできた当時者なのだから)1期生、2期生が自らを「平手のバックダンサー」とまで認識させてしまうに至った要因ではないかとも思っている。欅坂46に限らず、アイドル、特にそのセンターには、一定のプレッシャーや期待というのは付きものだ。だが僕らが平手友梨奈に背負わせたそれは、あまりに重すぎたのではないか。考えすぎだといわれても思い入れが強いから考えてしまう。あの時、自分の意見を適切な言葉で、適切な場所に届けられていれば。あの時のこころない発信に、臆せず反抗し、はねのけられていれば。だからその半年後、欅坂46の改名が発表された時は、正直いってホッとした。もう僕は、平手のバックダンサーとしてパフォーマンスし、平手の代理としてセンターに立つ彼女たちを見て、自分たちの過ちを後悔しなくて済むのだと。そして欅坂46の2日間にわたるラストライブが配信で行われると知った僕は、残業続きだった仕事を定時で切り上げ、この2日間のライブに臨んだ。そして自分の考え方は大いに間違っていたのだということに気付くことになる。

1日目は、ライブというよりむしろ「3次元の映画」を見た気分になった。つまり、ライブパフォーマンスが織りなす迫力と、観客がいないからこその演出・映像・舞台装置の表現が見事にかけ合わさっていた。ただライブの様子を中継して視聴者に届けるのではなく、映像であるということを計算したうえでの舞台装置、照明の演出へのこだわりが細かくみられ、むしろMVや映画を見ているのに近い感覚を僕は味わった。例えば、StudentDanceでは舞台上の複数のメンバーがかざしたスマホの映像を通常のライブ中継カメラの映像と切り替えて配信することで、1曲の中で客観と主観が交錯するという映像体験を視聴者に届けることに成功していた。そうしたスタッフのこだわりに応えるかのように、彼女たちの舞台上での立ち回り、カメラ目線の使い分けも魅力的だった。また、映像配信であることを前提としたパフォーマンスだけでなく、単純にライブとして集大成にふさわしい魂のこもったパフォーマンスは圧巻だった。筆者が特に心打たれたのは「不協和音」での菅井友香の2回目のセリフだ。自然に涙を流していた。

2日目のセットリストは、「青春」や「恋愛」をテーマにした表題曲(「世界には愛しかない」、「二人セゾン」など)やライブ定番のカップリング曲(「手をつないで帰ろうか」、「制服と太陽」など)が目立つもので、1日目の衝撃を超える興奮はなかった。だけど不思議なことに、2日目の方が僕は涙を流しながら彼女らの動きに見入っていた。そこで僕は思い出した。僕はサイレントマジョリティーのような強いメッセージ性の曲はもちろん好きだが、それ以上に2日目のセットリストのような曲の方が好きで、彼女たちの笑顔や楽しそうにパフォーマンスする姿に心動かされハマったことを思い出した。だがいつからか僕は、SNSで欅坂46に対する心ない発言を見たり、自分が標的になるのを恐れ、彼女たちを応援するメッセージごと遠ざけるようになってしまった。そうして誰かが表面だけ掬い取ったイメージに自身の脳も上書きしてしまい、自分が本当に好きな欅坂46を忘れてしまっていた。欅坂46がライブ前の円陣する掛け声は「謙虚・優しさ・絆」だ。普通の少女達がどうしてあそこまで統率されたパフォーマンスをすることができたのか。ダンスを指導するTAKAHIROが世界的に有名なダンサーであること以上に、彼女たちが話し合いを重ね、真摯にパフォーマンスと向き合ってきたからだ。2日間通して彼女たちのパフォーマンスは、誰がセンターになろうと変わらず素晴らしい輝きを放っていた。それは平手の穴を埋めようとして発揮される魅了ではなく、一人一人が楽曲に向き合い、考え、試行錯誤して辿りついたものだと気づいた。センターに立ったそれぞれが平手の魂も受け継ぎながら完全に自分のものにしていた。そしてそれが間違いなく観客である僕には伝わった。きっとそれが涙の理由だ。彼女たちをここまで輝かせる原動力はなんだろうと思った。彼女たち自身の「欅坂が好き」というグループ愛だと僕は思った。欅坂46を愛するが故の一人一人の努力、楽曲と向き合いパフォーマンスを作り上げるからこそ生まれる絆。そのひとつひとつの要素の根っこには彼女たちや彼女たち関わる人たちの「優しさ」があると僕は思った。2日間のライブ終盤、ここまで一切なかったMCを前に感極まるキャプテンの菅井にステージ裏から整列する際メンバー全員が菅井の肩に手を置き、声をかけていた(マイクはOFFで何と言っているのか聞こえなかったが)。そして、メンバー全員を代表した最後の挨拶の後、欅坂46としての最後の1曲は、すべての始まりの曲「サイレントマジョリティー」だった。演奏が終わりエンドクレジットが会場に流れるとそこには現役メンバーだけではなく、スタッフ、ダンサー、さらには作曲・編曲家の名前まで流れた。そして、卒業したメンバーとかつて「けやき坂46」として共に活動した日向坂46のメンバーの名前も流れ、5年間の欅坂46はここに活動の幕を閉じた。欅坂46は平手友梨奈1人のものだと思っていた。だがそれは勘違いだった。両日とも開演からOvertureまでの間流れていたテロップの言葉を僕なりに変えて、勘違いを訂正させてほしい。

ー彼女たちが欅坂46だ。

最後の櫻坂46のサプライズ始動も含め、このライブで僕は確信した。きっと、優しい彼女たちは欅坂の角を曲がった次の坂でも、苦しみながらも支えあって素晴らしいパフォーマンスを見せてくれると。グループに関わる全ての人がそれぞれ根っこに「優しさ」持ち、そして5年間の活動をもって「強さ」を備えた彼女たちのライブを見た後には、まるで長い冬を乗り越えて迎えた春の光を浴びたような温かい気持ちになった。ずっと僕には欅坂46を語る資格なんてないと思っていた。それはある種オタクとして未熟な自分への自責の念でもあった。でも、彼女たちは再スタートの一曲目で「Nobady's faults(誰のせいでもない)」と歌ってライブ会場を去っていった。その優しさと強さに救われて、僕は彼女たちがこれから上る坂を見届け続けることを決心した。櫻坂46、楽しみだ。(了)

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井の中秀政
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