人事戦略に組み込むメンタルケア:KDDIの制度から考える未来の働き方ー日経ビジネス記事より
日経ビジネス2024/11/26の記事「KDDI、社内カウンセラー42人が全社員と面談 労災を期に心身のケア」を拝読しました。
KDDIが2019年4月から導入した全社員カウンセリング制度は、日本企業におけるメンタルヘルスケアの新たなモデルケースとして大きな注目を集めています。この制度は、年2回、1回30分という形で実施され、社員の健康状態や職場環境、人間関係などについて、きめ細かな対話を通じて包括的に把握する取り組みです。面談後、必要に応じて医師との面談や休職を促すなど、予防から対策まで一貫したケアを提供しています。
独自の社内カウンセラー制度
本制度の最大の特徴は、充実した社内カウンセラーの体制です。現在42人の社内カウンセラーが配置されており、主に50代後半から60代の経験豊富な社員が担当しています。各カウンセラーは約300人の社員を受け持ち、営業、技術、カスタマーサービスなど、さまざまな部門での実務経験を活かしながら相談業務にあたっています。外部委託ではなく社内から育成する方式を採用しているのは、会社の業務内容や企業文化への深い理解が、社員の悩みに対するより適切な理解と支援につながるとの考えによるものです。カウンセラーは毎年4月に3週間の新任研修を受け、ロールプレイングなどの実践的なトレーニングを通じて相談スキルを磨きます。さらに、その後も定期的な研修や必要に応じた個別研修を実施し、継続的なスキル向上を図っています。
痛ましい契機からの組織改革
この画期的な制度が導入された背景には、深刻な出来事がありました。2015年に入社2年目の若手社員が自殺し、2018年に労働基準監督署から労災認定を受けたのです。この事態を重く受け止めたKDDIは、従来の受動的な相談窓口の設置だけでは不十分だと判断。企業が能動的に社員の心身の状態を把握し、適切なケアを提供できる体制の構築が必要だと考えました。この反省から生まれた全社員面談制度は、問題の早期発見と予防に重点を置いた革新的な取り組みとなっています。
数字で見る改善効果
取り組みの成果は、複数の指標で明確に表れています。「総合健康リスク」が基準値の120を超える部署の割合は、2021年度の8.4%から2023年度には3.2%まで大幅に減少しました。この数字の改善は、職場環境の改善と組織的なストレス管理の成功を示しています。
また、「高ストレス者」の割合も2021年度の12.2%から2023年度には10.6%に改善。さらに、社員の会社に対する愛着や働きがいを示すエンゲージメントサーベイのスコアも、2019年度の69ポイントから2023年度には74ポイントまで上昇しており、組織全体としての健全性が着実に高まっていることが示されています。これらの改善は、カウンセリング制度だけでなく、包括的な組織改革の成果と評価されています。
現在直面する課題
一方、この先進的な取り組みにも重要な課題が存在します。最も深刻なのは、カウンセラー自身の心身のケアです。カウンセラーは1日最大7人もの面談をこなすことがあり、これは一般的な基準からみても非常に多い件数とされています。また、社員から「面談は時間の無駄だ」「この時間を仕事に使いたい」といった厳しい意見を受けることもあり、精神的な負担も大きくなっています。さらに、メンタルヘルスの問題だけでなく、キャリア相談など多岐にわたる課題への対応も求められ、カウンセラーの業務負担は増加傾向にあります。これらの課題に対して、カウンセラーの増員や処遇改善、面談時間の見直し、支援体制の強化などの対策が検討されています。
医療機関利用へのブリッジ効果
注目すべき副次的効果として、この制度は社員が医療機関を利用する際の心理的ハードルを下げる「ブリッジ」としての役割も果たしています。一般的に、ストレスチェックで「高ストレス」と判定されても、医師との面談やカウンセリングの予約をためらう人は少なくありません。アドバンテッジリスクマネジメントの鳥越慎二社長が指摘するように、これは多くの人がカウンセリングを受けた経験がないことが主な要因とされています。全社員を対象とした社内カウンセリング制度は、カウンセリングという支援手法への理解を深め、必要な時に専門家に相談することへの抵抗感を減らす効果があります。これにより、メンタルヘルスの問題に対する早期発見・早期対応の可能性が高まることが期待されています。
今後の展望と社会的意義
KDDIの取り組みは、日本企業における従業員の心身のケアの在り方に新たな方向性を示しています。単なる問題対応型の支援から、予防と早期発見を重視した能動的なケアへの転換は、今後の企業におけるメンタルヘルス対策のモデルとなる可能性を秘めています。また、この取り組みは、働き方改革や健康経営の文脈においても重要な示唆を与えるものとして、他企業からも高い関心が寄せられています。今後は、カウンセラーの負担軽減や支援体制の強化などの課題に取り組みながら、さらなる制度の進化が期待されています。
人事の視点から考えること
KDDIの革新的な社内カウンセリング制度は、日本企業における従業員ケアの新たなベンチマークとなるでしょう。この制度を企業人事の立場から分析することで、実務的な示唆と今後の発展可能性が見えてきます。特に注目すべきは、予防的アプローチと能動的な介入を組み合わせた包括的な制度設計です。いくつかの観点で考察してみます。
投資規模と財務的影響の考察
財務面での最大の課題は、42人の専任カウンセラー体制の維持に関わるコストです。これには、カウンセラーの基本給与や手当などの直接人件費に加え、3週間におよぶ新任研修や定期的な能力開発プログラム、カウンセリングルームの設置・維持費用、記録管理システムの整備費用など、多岐にわたる間接コストが含まれます。
しかし、この投資は労災防止や離職率低下、生産性向上などによる長期的なコスト削減効果と比較して評価する必要があります。KDDIの事例が示すように、総合健康リスクの低下やエンゲージメントスコアの向上など、具体的な成果指標の改善につながっていることは、投資の正当性を裏付ける重要な要素となっています。
人材戦略としての側面
カウンセラーの人選と育成は、制度の成否を左右する重要な要素です。KDDIが採用している50-60代のベテラン社員の活用は、複数の利点があります。まず、豊富な業務経験と深い企業文化理解を持つ人材が、社員の悩みや課題を的確に理解できます。また、社内での信頼関係もすでに構築されているため、カウンセリングの効果も高まりやすいと考えられます。
さらに、シニア人材の新たなキャリアパスとしても機能し、企業の人材活用戦略にも寄与します。ただし、制度の持続可能性を確保するためには、次世代カウンセラーの育成や、キャリアコンサルタントなどの資格取得支援を含めた、より体系的な人材育成プログラムの確立が必要となってきます。
運用体制の最適化
現行の運用体制では、カウンセラー1人あたり300人という担当数の妥当性が大きな検討課題となります。これは国際的な基準や他社事例と比較しても相当に多い数字であり、カウンセリングの質の維持と労務管理の観点から再検討が必要かもしれません。具体的には、面談時間の設定、記録作成の効率化、スケジュール調整の自動化など、運用面での工夫が求められます。
また、カウンセラーの休暇取得や急な欠勤に対応できる柔軟な代替要員体制の構築も重要です。さらに、遠隔地の従業員へのケアや、時差のある海外拠点への対応など、グローバル展開を視野に入れた体制整備も検討が必要でしょう。
情報管理とコンプライアンス
メンタルヘルス情報は最も機密性の高い個人情報の一つであり、その管理体制の整備は極めて重要です。面談記録の作成・保管方法、アクセス権限の設定、情報共有の範囲と方法など、詳細な規程の整備が必要です。特に、部門へのフィードバックを行う際には、個人情報保護と組織改善に必要な情報提供のバランスを慎重に検討する必要があります。
また、医療機関との連携が必要なケースも想定されるため、外部機関との情報連携に関する明確なガイドラインの策定も重要です。さらに、定期的な監査や従業員教育を通じて、情報管理の重要性を組織全体に浸透させることも必要です。
デジタル化とイノベーション
ポストコロナ時代における新たな可能性として、オンラインカウンセリングの導入やAIツールの活用が考えられます。例えば、定型的な問診や予約管理にはチャットボットを活用し、カウンセラーの業務効率を向上させることができます。また、蓄積されたデータを分析することで、メンタルヘルス不調の予兆を早期に発見したり、組織的な課題を特定したりすることも可能になります。ただし、テクノロジーの導入に際しては、人間的な温かみを失わないよう、対面でのカウンセリングとの適切なバランスを取ることが重要です。
効果測定と改善サイクル
制度の有効性を継続的に検証し、改善につなげていくためには、適切な評価指標の設定が不可欠です。定量的指標としては、労災件数、休職者数、離職率などの直接的な指標に加え、生産性や業績への影響も分析する必要があります。定性的指標としては、従業員満足度調査やエンゲージメント調査の結果、職場環境評価などを活用できます。これらの指標を統合的に分析し、PDCAサイクルを回していくことで、制度の継続的な改善が可能となります。
組織文化への影響
このような包括的なメンタルヘルスケア制度の導入は、組織文化にも大きな影響を与えます。従業員の心身の健康を重視する姿勢を明確に示すことで、より開かれたコミュニケーションが促進され、心理的安全性の高い職場環境の醸成につながります。また、管理職の意識改革や行動変容を促し、より人間的な職場づくりに寄与する可能性もあります。
【今後の展望と課題】
企業としては、このようなメンタルヘルスケア施策を、単なる福利厚生や法令遵守の枠を超えた、戦略的な人材マネジメントシステムの核として位置づけていく必要があります。特に、健康経営やSDGsへの取り組みとも連動させながら、企業価値の向上につながる施策として展開していくことが重要です。また、グローバル化や働き方改革の進展に伴い、より柔軟で包括的なケア体制の構築が求められるでしょう。
このようなKDDIの先進的な取り組みは、日本企業における従業員ケアのあり方に新たな示唆を与えるものとして、今後も多くの企業の参考となることでしょう。企業人事としては、自社の特性や規模に応じた適切なカスタマイズを行いながら、持続可能な制度として確立していくことが求められます。
企業における包括的なメンタルヘルス支援体制を描いたものです。ベテランカウンセラーと社員たちが親しみやすいオフィスで対話する場面が中心に描かれています。背景には、ROIやエンゲージメント指標を象徴するグラフやデータが統合的に配置され、制度の効果測定や組織的アプローチを強調しています。柔らかな色調が、安心感と支援の意義を視覚的に表現しており、企業の未来志向の取り組みを象徴する内容となっています。