
【書籍】文字から心へー大沢敏郎氏が識字教室で見つけた教育の真価
『1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書』(致知出版社、2022年)のp366「11月21日:識字教室の生徒さんに教わったこと(大沢敏郎 横浜・寿識字学校主宰)」を取り上げたいと思います。
識字率は100パーセントに近いといわれる日本社会ですが、貧困、差別などさまざまな原因で学びの機会を奪われ、読み書きができないままの人生を強いられた人々が存在します。大沢氏は、横浜の寿町の寿識字学校で、そうした人たちとともに文字を自分のものとする学びを積み重ねてきています。以下の書籍はその学びのまとめたものです。
さて、『1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書』(致知出版社、2022年)の中で述べていることを考察してみます。
大沢氏は25年前に識字教室の講師としてのキャリアを始め、現在に至るまで続けており、主に公共施設の会議室で週に一度、金曜日の夜に三時間の授業を行っています。このクラスは中学生以上の誰でも参加可能で、具体的には日雇い労働者や在日外国人など、社会的に支援が必要な約10名の生徒が参加しています。
教室では五十音の読み書きや短文の作成といった基本的な日本語能力を教えることが主ですが、大沢さんの教育方針はある特定の出来事を通じて大きく変わりました。それは、教室に通っていた40歳の男性生徒の体験に関連しています。この男性は子どもの頃から読み書きができず、大人になってもその能力がないことに大きな劣等感を抱えていました。大沢氏は、その男性に母親の介護経験について書くように勧めました。その結果、男性は5日間かけて原稿用紙20枚に及ぶ長文を書き上げました。その文章は、母親への罪悪感や感謝の念、そして母親に対して十分にできなかったことへの謝罪が綴られていました。
文章の中で、特に印象的だったのは「おっかさーん!」という部分です。この言葉は、男性が母親が亡くなる過程で感じた強い感情を表していました。男性は授業でその部分を読む際、涙を抑えながらも声を大にして読み上げました。この瞬間、大沢氏は教育の本質について深く考えさせられました。彼は、もし自分が細かい文法の指摘をしていたら、男性は書くことを諦めてしまったかもしれないと感じ、以降は生徒が自身の経験や感情を自由に表現できるような指導を心掛けるようになりました。
お母さんが亡くなっていく様子を綴った後半部での、「おかさんと大きなこえでおもいきりなきました」という“おかさん”の読み方です。私は彼に読み方を尋ねようとしましたが、その書く勢いに圧倒されて、結局聞けず終いになっていました。
やがて皆の前で発表する日となり、涙で声を詰まらせながらも読み続けた彼は、問題の箇所まできた時、そのひらがな四文字を「おっかさーん!」と、部屋が割れんばかりのもの凄い声で叫んだのです。おそらく実際に彼はそれと同じ声で叫んだのでしょうが、私は大変なショックを受け、自分のこれまで受けてきた学校教育は、足元から崩されてしまったと思いました。
この経験から、大沢氏は識字教室の授業で「正しい」日本語の書き方や読み方だけを教えるのではなく、生徒一人一人が持つ独自の「声」やストーリーを大切にする教育方針を確立しました。彼は、教育とは知識の伝達だけでなく、生徒が自己を表現し、解放する場でもあるべきだとの考えを持っています。そして、この男性生徒が教室を離れた後も、彼が書いた文章が彼にとっての重要な「仕事」を完成させる手助けとなったと考えています。その経験を通じて、大沢氏は教育者としての自己の役割と方法について、新たな洞察を得ることができたのです。
人事としてどう考えるか
大沢氏の識字教室での経験は、私たちが日常的に行っているコミュニケーションの価値や、教育のあり方について多くの示唆を与えています。この話から学べる点は、人事の立場から考えても非常に重要な要素を含んでおり、人材育成や教育の手法についての理解を深める助けになるでしょう。
1. 個々の経験と感情の重要性
教室での事例は、個人の過去や体験が現在の行動や学習へどう影響しているかを鮮明に示しています。人事管理においても、従業員一人ひとりが持つ独自の背景や経験に注目し、それを尊重することが重要です。個々の従業員が抱える特性や過去の経験を理解することで、より効果的な研修プログラムやキャリア開発支援を行うことが可能になります。
2. 教育の形式と柔軟性
識字教室では、従来の教育方法に囚われず、生徒が自らのペースで学べる環境を提供しています。企業においても、一律の教育プログラムではなく、従業員の個々のニーズに応じたカスタマイズ可能な研修が求められます。特に成人教育では、自己表現の場を設けることで、従業員のモチベーションの向上や自己実現に繋がります。
3. コミュニケーションの本質
識字教室の話からは、言葉を超えたコミュニケーションの力が伝わってきます。企業内でのコミュニケーションにおいても、形式だけでなく、言葉の背後にある感情や意図を理解することが重要です。効果的なコミュニケーションは、相互理解を深め、チーム内の信頼関係を構築するために不可欠です。
4. エンパワーメントの推進
教室での指導者は、指導方法を変えることで、学習者に自己表現の力を与えました。人事においても、従業員が自らの力で課題を解決し、自己成長を遂げられるような環境を提供することが、エンパワーメントにつながります。自立を促す管理方法は、従業員の能動的な参加を促し、組織全体の革新を促進します。
5. インクルージョンの重視
この識字教室は、さまざまな背景を持つ人々が一堂に会し、学びを共有している点も見逃せません。多様性と包摂の理念は、企業文化においても同様に重要です。異なる背景を持つ従業員が互いを尊重し、協力して働ける環境は、創造性やイノベーションの源泉となります。
このように、識字教室での体験は、人事管理や企業教育において重要な教訓を提供しています。従業員の個々のニーズに耳を傾け、柔軟な対応を行うことで、組織としての成長だけでなく、個々の従業員の満足度とモチベーションの向上を図ることができるでしょう。

教室のシンプルな内装や、情熱を持って授業を行う教師、そして感動的なエッセイを読む生徒の姿が、教育が人々の生活に与える支援と変革の力を象徴しています。この場面は、教育の本質と人間関係の深さを感じさせるものです。
1日1話、「生き方」のバイブルとなるような滋味に富む感動実話を中心に365篇収録されています。素晴らしい書籍です。