どうせなら「東洋思想」の沼にはまってみるか・・。その3
老荘思想その2、荘子さんの考え方
さて、「老荘思想」と言うくらいですから、
前回は老子さんを紹介しましたが、
今回は荘子さんの考えをご紹介いたしましょう。
ぶっちゃけて言えば、荘子さんの考え方は、
「仏教」、とりわけ「禅」の考え方に共通点が大きくあります。
しかも、それは「日本人古来の考え方」にも深く通じるものがあるのです。
それが「万物斉同」という思想です。
まず、老子さんが説いた 「道」についての解釈を、
荘子さんは、自ら然る宇宙の秩序であるとしました。
それゆえ自己を放棄して、これに因り循う事が万物斉同であり、
運命随順、すなわち運命には逆らわない。
いわば「死んで生きる」という生き方を説いたわけです。
その根拠として、荘子さんは凡人が形成する社会の正体は
「相対主義」事にあると定義しました。
すなわち美と醜、彼と我、善と悪これらの相対観によって
この世は作られているというわけです。
しかし仏教と違う点は、荘子さんは
それがゆえに対比するものがあるからこそ
相互に依存し合って成立するものなのだ。
という現実主義に立っています。
それが道であるというわけです。
簡単に言うと、こういう立場からいうと、
相手を否定することは、相対である自分を否定することになる。
という論理です。
ですからすべてのものは一つであるから、
自然においては互いに斉しい。という結論に達します。
これが「万物斉同」という考え方です。
これは、すべての者を差別なくうけいれ、あるがままに認める。
まさに絶対肯定の考え方で
いわゆる「絶対無」という境地であるというわけですね。
つまらぬ計らいをなくし、あるがままに生きる。
これは「禅」の思想と共鳴します。
この境地に達した人を「真人」とよびます。
「真人」の境地というのは、このように表されています
つまり真人(至人)とは、
こざかしい考えで自然の道理をゆがめることなく、
悠々自適、融通無碍、散歩を楽しむように自然が与えた命を楽しむ。
という生き方をする人である。ということです。
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