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「日本仏教」と「止観」の接点 その8
「くそまじめ」だった道元さん
栄西さんに遅れること約30年ほど。
やはり比叡山に失望し、下山したのが道元さんでした。
道元さんは良家の出ではありましたけれど、
早くに両親に死に別れ、13歳で比叡山延暦寺に出家します。
ところが、当時の叡山はまさに僧兵の砦でした。
天台教学を純粋に学ぼうとした道元さんにとっては
たまらない状況だったわけです。
そして2年後、道元さんは下山し、
建仁寺の栄西さんの門を叩いたわけです。
道元さんと栄西さんは60歳も歳の違いがありましたから、
時の栄西さんは「禅」の大師匠でもあったわけです。
道元さんは、はじめてここで「禅」という概念に
出会ったというわけなのです。
おそらく「禅」を極めたいと考えたのでしょう。
やがて道元さんは1223年、日宋貿易船に乗り込んで入宋を果たし、
本場の禅宗を学ぼうとしました。
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ここで有名な逸話がございます。道元さんが明州で、
偶然にであった典座との出会いがあったのです。
この人は阿育王寺の老雲水で、
およそ典座など身にそぐわない人でありながら、
あえてそうしている。
道元さんは不思議に思ったのです。
しかし、老典座は、「普段の生活なくして仏道などないよ。」
と爽やかに言ってのけたわけです。
道元さんはここに止を見いだしたのかも知れません。
そもそも、達磨大師によってもたらされた「定学」は
道教などの融合を経て、
「中国禅」として六祖慧能によって確立しますが、
達磨大師が説いたとされる四聖句という
4つの根本思想があります。
のちに詳しく解説いたしますが、
「不立文字」、
「教外別伝」
「直指人心」
「見性成仏」
の4つの原則で、禅思想の神髄とも言える内容です。
臨済禅も曹洞禅も、この原則の完成を目指していました。
栄西さんがもたらした臨済禅は「看話禅」とよばれるものでしたが、
それに対し、道元さんがたどり着いた曹洞禅とは、
そもそも釈尊が実践したのは、
「瞑想」であったということから、
釈尊のようにひたすら座ることこそがこの原則に至るのだ。
という実践法である「只管打坐」という修法でした。
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入宋してから、ひたすら正法の旅を続け、
道元さんは天童如浄という師に出会いました。
この如浄さんという高僧は、
中国曹洞宗の祖である洞山良价、曹山本寂の正統の系譜を引き継いだ方でした。
この人に出会い、道元さんは印可を受けることになったのです。
しかしながら、道元さんは、このことを曹洞とか、
禅という言葉ではなく、「釈尊正伝の仏法」とだけ呼んでいました。
仏法を「哲学」と捉えたのではないか、そう感じます
これを道元さんは日本において提唱したのです。
この思想は「正法眼蔵」という
道元さんの著書にまとめられています。
只管打坐とは、ぶっちゃけた話、
「座る事以外、覚りには何も要らないよ」というシンプルな考えです。
「正法眼蔵弁道話」という道元さんの語録によると、
釈尊以来の祖師たちは、坐禅によってのみ覚りを得てきた。
だから焼香をはじめ、念仏も読経も全く必要なく、
ただひたすらに打坐して心身を脱落しなさい。
という事を述べてます。
つまり、座ること以外は「余行」であるとしています。
そしてその考えは「修証一如」といい、
坐禅をして仏の覚りを得るのではなく、
「坐禅そのものがそのまま覚りなのだ」という思想を説いたわけです。