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「日本仏教」と「止観」の接点 その10

日蓮登場

さて、今まで「仏国土」はどこにあるか?
というような「悟りのフィールド」というもので、
来世にあるという浄土信仰、自らの心にあるという禅。
こういったお話をしてきましたが、
「今ここに生活しているこの世こそが、仏国土なんだ。」
と声高らかに主張した人が日蓮さんだったのです。

 そもそも天台の説く「法華一乗」とは、
この世に生きとしものは、すべてあるべくしてあるのだから
あの世もこの世もない、今あるここで「救い」があるものなのだ。

と言う考え方です。すなわち、今生きているこここそが、
「悟り」そのものであるという考え方です。
ですからそもそも東洋世界に伝わった「鎮護国家」
の理念が、ある意味「国家」から「社会」に対する
微妙な期待の変化を時代がうつしていたのだと思います。

そして、その真理を書き示しているのが「妙法蓮華経みょうほうれんげきょう」であるという、時代をかわらず大いなる真理はあるという。
大乗仏教の根本的な思想に基づきます。
このことをあらためて主張したのが日蓮さんでした。

日蓮上人像

妙法蓮華経の根本は、
すべからく存在は悟りの境地にあるのだ」
という、絶対肯定から始まっています。

 すなわち、あたしたちは生まれながらに
なにがしかの「仏国土」にいるのであると言う考え方です。
それに気づいているかいないかという問題であって、
もはや悟りの中にいるのに何で気づかないのだ。
と言うスタンスです。

 その根本を説いているのが妙法蓮華経であるから、
まずとにかく、この経を敬うことから始めなさいよ。
というのが日蓮さんの教えなのです。

 ですから「南無妙法蓮華経」と唱える。
とにかく、ここから始めなさいよ。という事になります。

こう唱えることにより、
今ここにいる世界こそ「仏国土」なのだと自覚しようというわけです。
そして、この現世にこそ法華一乗の「仏国土」を創るべきなのだ。
という考えに至りました。
ですから、法華経の一部を取り出した他宗は「迷いだ」と断じたのです。

妙法蓮華経=以下法華経と略します。
実は、この経典は大乗仏典の最終形とも呼べるもので、
「永遠のブッダ」の存在を述べた経典です。

読み終わったあとにはなんとも言えない
荘厳な気持ちになる内容であるから、なるほど、とにかく敬え。
という主張も解らないわけでもない経典でもあります。
実際、聖徳太子も三経義疏で法華経の解説を第一に挙げています。

日蓮さんは、修行の末
「やっぱ法華経でしょう!」
という気持ちになったのは、
法華一乗という最澄さんの根本に戻るにはこれでしょう。
という気持ちになったのかも知れません。

つまり、圧力団体になった、
密教をふくめた既成寺院や念仏衆、
武家に取り入られた禅宗。

余計な考えがハマったので、
純粋な法華一乗という「大乗仏教」がゆがんでるのではないのか?
という気持ちになったのかも知れません。
まぁ、一種の原理主義と呼べるものなのかも知れません。
 政治と宗教は離れるべきだという主張は
道元さんをはじめ、常に宗教家なら思うことです。
まぁ、この辺の「理屈」の解説は、後に譲りましょう。

 ですから、当然迫害に遭うことになります。
日蓮さんの主張は徹底していました。
とにかく「法華一乗」ありきでした。

すなわち、最澄さんが述べた大乗の考え方です。
この根本は「今この時、この場こそが、ブッダの悟りの境地なのだ。」
という、壮大な「妙法蓮華経」の世界観です。

ですから、つまらぬ修行や来世を祈るより、
現世肯定である「妙法蓮華経」を敬えという考え方です。
ある意味「鎮護国家」が形を変えたとでもいいましょうか、
救うべきは国家ではなく社会だというベクトルでしょうね。

その表現が「南無妙法蓮華経」という題目を唱える
というサマタになったというわけです。

 ですから、逆に法華経以外はすべて排除すべきである
と言う極端な考え方にも繋がります。
日本の仏教系譜としては独特なものだったかも知れません。
いわゆる「市民運動」にも近いですから、
時の為政者には目障りだったのかも知れません。

ある意味あたしも目障り・・か

なんせ、立正安国論りっしょうあんこくろんという警世の書をだし
そのため弾圧を受け、流罪にもなっています。

ですが、この考え方はある意味
積極的に「仏国土」を現世に創ろうという
前向きな宗教のあり方であるとも言えます。

日蓮さんについては、宗教家として
ちょいと興味が生まれましたので、
今回は終章のつもりでしたが、
おまけとして次の章に譲ることにします。

CONTINUE


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