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漂泊幾花 第2章 古都の桜花

4  伊集院家のできごと

意外な言葉だった。

「・・おじいさまの所って・・・。」
「そうよ、実母ははの家よ」
「・・しかし、何だって。」

 咲は静かに笑いながら、淡々と言った。
「実は、これもふじ色の旅立ちの一環なの。」

 咲はそれだけ言うと、僕の腕を掴んだまま、哲学の道をそれ、閑静な住宅街の方向へ向かっていった。
昨日から咲は、どこか吹っ切れた表情をしていた。
旅立つ直前のけわしいつきつめた表情は、いつしか消えているのに気づいていた。いったいそれが何によるものなのか僕には測りかねていた。

 やがて咲は、樹木に覆われた瀟洒な作りの一軒の家の前に立っていた。
そのたたずまいは古くはあるが、品のある古都にふさわしい風格があった。表札に、大きく「伊集院」とあり、咲の実母ははの実家であることが容易に推察できた。

「こんにちはー。」

 咲は、門柱を越え、玄関に向かって大きく声を張り上げた。
「前に、来たことがあるのか?。」
咲があまりにも慣れた感じで言うので、僕はついそう聞いてしまった。
「あるわよ、だって、あたしが生まれて間もない頃、住んでたんだもの。」
「・・・・・。」

 僕は唖然とした。それなら、初めてきたも同然ではないか・・。改めて咲の度胸の良さというか、天真爛漫さというか、何とも言えない一面を僕はかいま見た。

「どちらはん・・・?」
 やがて、品の良い老婆が玄関に現れた。心なしか咲に似ている。咲の祖母なのだろうか・・?僕はそう考えてその老婆を見た。
「初めまして、こちらの奥様でいらっしゃいますか。」

咲ははきはきと、それでいて凛とした風格すら持った物言いでそう尋ねた。
「へぇ、そうどす。」

老婆は、咲を生命保険の勧誘員とでも思ったのか、やや怪訝な顔つきをした。咲は、くすくす微笑みながら、ぺこりと頭を下げ、きっぱりと言った。

「こんにちは、あたし、浦上慎一の長女、咲です。」

 老婆は、はっと驚きの顔を見せた。そして、咲の顔をまじまじと見つめ、やがて悲しく、苦しそうな顔をしつつ、
「・・・存じ上げまへん・・・、お引き取りくださいまし・・。」
と、静かに言った。

「はい!失礼しました。」

 咲は即座にそう答え、ぺこりと頭を下げた。僕は狐につままれた気持ちで二人のやりとりを見ていた。

「それじゃ、ごきげんよう・・・おばあさま。」

 咲は、そう言って、きびすを返した。その刹那、咲の目に光るものが見えたのに気づいた。だが、僕は極力それを見ないように心がけた。

「あ・・・、少しゅう・・。」

老婆が呼び止めた声に、咲は振り向かず、答えた。

「おじいさまは、お元気でいらっしゃいますか?」
「・・心配のう、あんじょう暮らしとります。」
「よかった・・・。それじゃ、失礼します。」
「・・・嵯峨野おはかには・・・?」
「・・・行きました・・。」

 咲はすたすたと振り返るでもなく歩き始めた。
僕は黙って咲の横を歩いた。
伊集院家との会話は、これで十分すぎるものだったのかも知れなかった。

 やがて、伊集院家が見えなくなるところまで、ずっと、老婆は咲を見送っていた。

 咲は終始黙っていた。知恩院の大きな山門を抜け、境内の縁側に咲と二人で並んで座った。

静かだった。
「・・・・咲。」
「・・え?、なぁに?、先輩。」

咲は意外なほど明るく答えた。
「・・行かない方が良かったんじゃないのか?。」
「どうして?。」
「・・だって、その・・。」
僕は答えに窮していた。
「・・あたしが冷たくあしらわれたって事?。」
「・・・そう・・かな?」
僕は曖昧に答えた。
「あたしは執着を捨てるために旅に出たのよ、充分だったの、あれで。」
 咲は、呟くようにそう答え、縁側から庭にとんっと降り立ち、僕の方を向いて言った。

「・・・でも、あたしの故郷くにって・・・。」
俯いて再び続けた。

「・・何処になるのかしら・・・。」

 僕は返事に困った。思ってもいない言葉だったからだ。それにしても、咲はなぜ「ふじ色の旅立ち」などと言ったのか、これで何となく解った気がしてきた。咲はまだ故郷に帰れない、旅人のような自分の存在を感じているに違いなかった。咲は自分の心に納得できる「故郷」を求めているのだ。

「先輩、・・もう長崎に行こうか。」

「咲、たった一つだけ、君の意志に反する事をしていいだろうか?」
僕は思いきって言った。

 咲は「えっ」と言う顔をして僕を見つめた。そして少し困惑した表情を見せた。

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