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その墓地は、半ば観光スポットかもしれなかった。
様々な著名人の墓所でもあったからだ。
特に暑い日だった。
それぞれの墓石には、献花があった。
新しいもの、古きもの。枯れてしまった花もそこかしこに見えた。
枯れてしまうとわかりながら、人はなぜ墓前に花を献るのだろうか。
「お墓だから飾るんじゃないかな」
彼女はそう言った。
特に暑い盆の時期だ、墓前に飾られた花など、数日で枯てしまうのはわかっているのに、なぜ?
そんな疑問がわいた。
「次に来たときに、絶対枯れてるってわかるから、お花買うでしょ。」
彼女の答は明快だった。なるほど、花は必ず枯れるのだ。
そんなとき、いつかある古刹で観た「九相図」を思い出した。
九相図とは、人が死に、その死体がやがて朽ち果てる様子を絵にしたものだ。
すなわち、「諸行無常」をまさにビジュアル化したものといってよい。
だが、たとえばそこに行かなくとも、火葬場で、ものの一時で、いちくれの焼骨に変わり果てた、愛しき人の姿をまのあたりにすれば、それは感じざるを得ない感覚だ。
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滅ぶと知りながら、人は毎回「献花」するのだ。
だが、その「献花」は様々な要素を持っている。
だが、それはおのおのの心の世界だ。
自分がたとえ死んだとして、永遠に献花する者などどこにもいないのだ。人は死ぬとやがて忘れられるものなのだ。
自分への永遠の献花などもとより望むものではない。
しかし自分以外で考えれば、その連鎖は続くだろう。
いわゆる「何々家代々」という連鎖だ。
だが、それも時代には即してない感が最近はしている。
時々流行の「持続可能性」なるものが、果たしていかなるものか。ということをなんとなく思うようになった。