人が「神」の存在を求めるメカニズム
神とは、究極の精神安定剤?
困ったときの神頼み。
という慣用句がありますね。
およそ自分の意思ではどうしようもない事項においては、
人は「思考停止」するしかないのです。
これが「運を天に任せる」とか、
「神の思し召しに従う」といった
言ってみれば消極的な発想になります。
つまり、理不尽の結果を「丸投げ」する対象として
「神」の存在を発明したのだといえます。
人智を越えた現象は、もはや神の領域である。
という諦観は、そもそも理不尽である現象に対する、
「精神安定装置」であるといえます。
ですからこの精神的な行動は、
きわめて自然なことであると考えます。
すなわち、こういった「畏敬」があるからこそ、人々は、
どうしようもない現実を乗り切る糧としたのです。
いわばこの精神的なメカニズムが「信仰」の正体なのです。
「神」が人を束ねる「道具」になる?
さて、まずは「一神教」がなにゆえ成立したのか、
少し考えてみましょう。
たとえばある集団=ここでは民族や部族、地縁社会などが、一つの神だけを自分たちの 神だとしていれば、
それは「一神教」ということになりますね。
この場合だと、「神」の選択権は人々にあるわけです。
ですから、もし「集団にとって益のない神」は
たいまちその信仰を失います。
何もやってくれない神は、もはや神ではないという
単務的なものです。
この基本には「多神教」的なバックボーンがあります。
ユニクロが飽きたからGUにするみたいな感覚というのは、さすがに言い過ぎでしょうが、
あたし的にはこういう感覚かなと思います。
ところが、ここで一神教に一つの変化があります。
旧約聖書自体が、
実は「ヤーヴェを信仰する存在」の歴史叙述なのではないのか?という仮説から、
こういう考えに至りました。
世界史的な観点から、古代オリエントの歴史を、
「ユダヤの民」を中心にしてひもといていくと、旧約聖書の記述の中に、
その歴史の示唆がみえてくる気がするのです。
そこで出てきた一つの流れとして、彼らは、いつしか自分たちが神 を選ぶことはできない。
ということになった。ということです。
すなわち、彼らは「ヤーヴェ」が
自らの唯一神であるという契約を交わすことによって、
自らとヤーヴェは「双務的関係」になった。
というわけです。
そこで、ヤーヴェを信仰する民が生まれました。
旧約聖書には、いくつもの「神との契約」が述べられています。
そしてその契約を代弁したのが「預言者」という存在です。
彼らが述べたことは、
我らが「律法」を遵守することによって、唯一の神は、我らに福音をもたらすのだ。
という「神との契約」というわけです。
その代表的なものが「モーセの十戒」というわけです。
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