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私の“居場所”。

「居る」ということを最初に意識したのは、
小学1年生だった。
私は病気療養のため、
小学1年生の1学期を全休し、
2学期から通い始めた。

「居場所が無い」という感覚。
自分以外の存在は皆、繋がっており、
自分だけがポツンとしていた。

「居るのはつらいよ」

まさにそんな感じを味わった。

そんな私を救ってくれたのが、
同じ気持ちを共有できる存在。
アドくんだ。

彼も病気療養しながらの通学。
共にドクターストップによって体育は見学。
退屈な見学から2人で抜けて、
観察池からヤゴを捕り、
給食で使うコップに入れて持ち帰り、
母を怒らせたのも良い思い出だ。

体育見学の2人にとって、
運動会は退屈の極み。
2人でゴザをむしってわら人形を量産。
誰も呪ってないが、
楽しそうにわら人形を作る姿は、
とても異様だったそうだ(父談)。

あの頃の私は、
アドくんと“2人でいる”ことが
居場所だった。

でも、アドくんが転校した後も、
私の居場所は無くならなかった。
何故だろう。

それはアドくんとの繋がりを
ベースキャンプとして、
そこからいくつもの繋がりを作れたから。

だからこそ思う。
「繋がりは複数ある方が良い」と。

本書『居るのはつらいよ』を読みながら、
そんなことを思い出していた。

あと、これは現在進行形なのだけど、
「ケアする人をケアする存在が必要」は、
心臓を直撃するほど響いた。

そして、ICレコーダーを備えての日々。
身につまされ過ぎて、
共感の嵐。

学校現場と重なる話が多い。
ケアとセラピーも本当に参考になった。

以下は、本書からの抜粋。
覚書だ。
ネタバレになるので、
読む・読まないの判断をお願いします。

P105
僕らにとって依存は本質的な営みなのだ。弱ったときに、誰かに頼る、ケアしてもらう。あるいは、弱った人のお世話をする、ケアをする。それは僕らの本能だ。
P107
自立を良しとする社会では、依存していることそのものが見えにくくなってしまうから、依存を満たす仕事の価値が低く見積もられてしまうのだ。
P114
人は本当に依存しているとき、自分が依存していることに気がつかない。(中略)子どもがいちいち母親のしていることに感謝しているとするなら、それは何か悪いことが起こっている。依存がうまくいっていないということだ。
P115
そう思うと、依存労働って、本当に損な仕事だ。(中略)仕事が成功しているときほど、誰からも感謝されないからだ。
p119
いろんな専門性を持ったスタッフがみんなで素人仕事をやるのだ。
P127
線的時間と円環的時間。
p142
たぶん本人にも分からない。繰り返される日常の円環的な時間が変えたとしか言いようがない。
p152
遊べない人もいる。あるいは遊べないときがある。うつになるとゲームするのも嫌になるし、不登校児はおもちゃに囲まれても手を伸ばすことができない。
p153
遊ぶためには、誰かが心の中にいないといけない。それが消え去ってしまうと不安になって遊べなくなってしまう。少年は心の中で母親に抱かれているときに、遊ぶことができる。
P154
人は誰かに依存して、身を預けることができたときに、遊ぶことができるということを意味している。
p156
ハエバルくんはデイケアの遊びに巻き込まれたのだ。人と一緒にいられなかった彼は、遊びの中で、自分をデイケアに重ねた。デイケアに身を預けた。そのようにして、ハエバルくんのほころびた円は、デイケアの円環的な時間に重なり、そして修復されたのだ。
P182
なんだかんだ言って、僕らにできることは「様子を見る」ことしかない。デイケアに魔法はない。事件を鮮やかに解決してくれる名探偵はいない。そもそも心の問題に特効薬はない。時間という効き目の遅い万能薬しかない。だから、淀んでいるけど、ゆっくりと流れている時間が、心をどう変化させていくかを見る。注意して見守る。そのために僕らはミーティングを重ねる。(中略)ただぼんやりと様子を見るのではなく、何が起きているのかを考えながら様子を見る。
P189
ほとんどのメンバーさんはデイケアに「いられる」ようになるためにデイケアに「いる」。そういうリアリティがたしかにある。(中略)僕らが生きているこの社会では「変わる」ことがとても大事なこととされている。「PDCAサイクル」なんていう言葉もあるけれども、目標を決めて、挑戦して、うまくいったかどうかをチェックして、そして改善する。そうやって目標を達成する、成長する、変わっていく。そういうことだけが良しとされている。それが僕らの社会の倫理だ。だけどそれって実は特殊なことではないか。
P191
心理学者、河合隼雄が「先生のおかげで私もずいぶんと変わりました。変わるも変わるも360度変わりました」とクライエントからお礼を言われたエピソードを書いている。名言だ。
P203
目が慣れてくると違ったありようが見えてくる。森と同じだ。森は初見では静かな木々の集合体にしか過ぎないけれど、長く住んでいると昆虫や小動物たちの生態系であることが見えてくる。小さな生き物たちがうごめく様子が見えてくる。
P204
社会心理学者のリースマンが「援助者療法原理Helper Theory Principle」と理論を語っている。簡単に言ってしまうと、誰かを助けることが、自分の助けになるということだ。(中略)人に勉強を教えると自分のほうが勉強になる。
P209
綺麗ごとでもなんでもなくて、本当にデイケアではメンバーさんにケアしてもらわないと仕事にならない。メンバーさんが手伝ってくれるから、なんとかデイケアは成り立っている。出勤したら、朝から晩までケアされるのがデイケアスタッフの仕事だ。
P220
デイケアはコミュニティだ。しかも、究極のコミュニティだ。というのも、それは「いる」ために「いる」ことを目指すコミュニティであり、コミュニティであるためにコミュニティであろうとするコミュニティだからだ。
P247
デイケアにおいて構造は根源的だ。週5日間開いていたデイケアが週4日になればおそらく激変だし、朝の集合時間が2時間変更されたら、メンバーさんに与える影響は甚大だ。構造がメンバーさんを支えている。
P261
喪失はつらく、苦しい。大切なものが奪われ、二度と帰ってはこない。その事実に打ちのめされる。だけど、そういう悲しみや痛みをしっかりと心に置いておくと、失った当のものが心の中で再生していく。混乱した気持ちの果てで、喪失したその人が心の中でしかと存在していることを感じる。良き記憶が生き残る。感謝の念が生まれる。
P272
上野千鶴子氏はデイリーによる次のようなケアの定義を紹介しています。
依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組のもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係。
上野千鶴子『ケアの社会学』p42
この文書はなかなか優れた定義です。ケアというものが「ニーズを満たす」ものであること、そしてそれは別の言葉を使えば「依存を引き受ける」事でることが、示されていますから。(中略)傷つけないって本当に難しいんです。(中略)ケアとは傷つけないことである。
P274
セラピーとは傷つきに向き合うことである。
P275
セラピーでは「ニーズを満たすこと」ではなく、「ニーズを変更すること」が目指されます。
P276
まずはケア。それからセラピーです。
P298
次々と人が入れ替わり、使い捨てにされていく。代わりはいくらでもいるから、「いる」がないがしろにされる。ブラックなものは、「いる」を軽視する「いられない」場所に生じる。
P305
しかし、ブラックデイケアが一部の悪質な人間が引き起こす他人事なのかと言うと、そうではない。それはデイケアというものの本質に内在したものだと思う。というのも、実際のところデイケアは、メンバーさんが「いる」ことが収入になる、というビジネスモデルで成り立っているからだ。
P306
ケアする人がケアされない。そのとき、ブラックなものがあふれ出す。それは僕だけの問題ではない。介護施設もそうだし、児童養護施設もそうだし、学校の先生も、あるいは心理士そのものがそうかもしれない。
P323
真犯人は僕の中にいる。(中略)僕自身がセラピーを高く評価して、ケアを軽く見ていたのだ。
P324
哲学者フーコーはアサイラムの典型がパプティコン=一望監視施設」であると見抜いた。(中略)すると、各独房にいる囚人は、常に自分が見られていることを意識せざるを得ない。
P337
だけど、僕はその価値を知っている。「ただ、いる、だけ」の価値とそれを支えるケアの価値を知っている。僕ば実際にそこにいたからだ。その風景を目撃し、その風景を確かに生きたからだ。だから、僕ばこの本を書いている。そのケアの風景を描いている。

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