教室から葬儀場まで。
ここ数ヶ月、迷い続けて
いろんな友達に相談してみて
ようやく一歩踏み出せたので
嬉しくて嬉しくて
久しぶりにnoteを書いてみようと思った。
新しいお仕事を始める
それはそれは
「葬儀屋さん」
周りからは
「これまでとは全然違う仕事」と思われがちだけど
私としては
「これまでの延長にあった」もの。
でもこれを
いつ思いついたのか
覚えていない。
いつの間にか考えていて
いつの間にか人に話すようになり
話しているうちに
「あ、私、こんなふうに考えているんだ」って
自分の気持ちを知っていった。
そんな中で整理された
葬儀屋さんで働きたいと思った
2つの理由。
1つは、人生の自由研究の一環として
やってみたくなったから。
教育に携わる中で
「人はどんな存在なのか?」
「どうすれば幸せに生きていけるのか?」が
私の人生の自由研究になってた。
それはつまり
「生き方」や「あり方」を考えるということ。
そして、その先には必ず
人生の「終わり方」があることに気づいた。
少し話がそれるけど
インドでは人生を4つに区切った言葉がある。
学生期:社会に出るまでの準備期間
教育はまさにこの時期にあるもの
続いて
家住期:20代から50代くらいまでの社会で生きる期間
続いて
林住期:世間から離れて自然の中の一部として自分と対話する期間
(自分を取り戻す期間とも言われている)
私は、子育てを早くに終えたこともあって
家住期と林住期の両方にいる気がする。
そして最後は、
遊行期:人生の終わりに備えて準備する期間
教育は、人間形成の土台作りだから
人生全般を想定をしているけれど
実際は、家住期くらいまでしか考えは及ばない。
自分の人生でも、しばらくは林住期が続くし。
だから、その先も知りたいって思った。
むしろ、
生き方から終わり方まで見通せないと
「人はどんな存在なのか?」
「どうすれば幸せに生きていけるのか?」に
自分なりの答えが出せない気がしたから。
介護、看護、納棺師
他にも候補はあったけど
葬祭ディレクター
これに一番、ピンときた。
葬祭ディレクターになるには
実務経験が必要だと知って
「佐久市 葬儀屋 求人」で検索を始めた。
2つ目は、
他国の葬儀文化に触れ
日本の葬儀文化に違和感を覚えたことが
きっかけだった。
少し前に訪れた
マダガスカルでは火葬は行わない。
遺体を白い布で巻き、レンガでできた小屋に安置する。
親戚みんな同じレンガ小屋に入るらしい。
数年に1回、その白い布に巻かれた体を
お神輿のように担ぎ出してきて、並べる。
(日本でいう法事)
食事をして、おしゃべりして
一晩中騒いで、踊る。
THEアフリカと言わんばかりの
ハイテンションで、
お祭りのような賑やかさ。
(現地の友達が送ってくれた動画が手元にあるけれど、noteには動画は貼れないので、残念。。。)
お墓に納骨する日本と比べると
白い布という物体は存在感が大きく
それに触れたり、さすったりすることができる分、
「故人が傍にずっといる」
ような感覚になる気がする。
黒い服も着ない。
宗教家もいらない。
各々の故人への想いを
自由に表現して弔う。
ガーナに行った時も
カカオ豆の形と塗装をされた棺桶があって
その自由さが垣間見えた。
火葬や仏教への批判ではなく、
形式よりも想いが大切にされることに
重きを置きたいだけ。
でも、何かとルールが多い日本の葬儀も
生き方も家族の形も多様化した時代だからこそ
自由度は少しずつ上がり、
「人生の終わり方」を
自分で選べる時代になってきている。
この業界の変化と未来に
魅力を感じたから。
これが2つ目の理由になった。
本当のことは誰も知らない世界
よく教育は
「誰でも語ることができるテーマ」と言われている。
なぜなら、誰もが何かしらの教育を受けてきたから。
教育観は、さまざまだけど
それぞれが正解。
それはその人の経験に基づいているから。
「死」も教育と同じように
もしくはそれ以上に
誰しもに起こること。
だけど、誰もが語ることはできない。
だって、誰も経験したことがないから。
どこにも正解がない。
唯一無二の不思議な世界。
Q.なぜ人は死ぬのか?
A.生き続けるため
この世界に興味をもってから
死に関する本を
読み漁った。
「人はいつ死んだことになるのか?」
「身体機能が失われた時か?人格が失われた時か?」
「そもそも魂はあるのか?」
いろんな問いがあり
そこにも正解はない。
でも仮にもし
身体が衰退し、その機能が完全に失われることが「死」だとするならば
その「死」には、はっきりとした理由があった。
結論をいうと
人は生き続けるために
自ら死んでいく。
すごい矛盾のある言葉だと思う。
難しい用語は覚えていないから
簡単な言葉で説明を試みる。
遠い昔、「死」は存在しなかった。
それを叶えていたのは
細胞を1つしか持たない
単細胞生物のみ。
その細胞の中には
1つのDNAがあり
それを複製して生き続けることができた。
だから、その時代に
死は存在しなかった。
でも地球の環境が激変し
単細胞だけでは生きていけなくなった時
生存のために、多細胞生物への進化を遂げた。
多細胞生物になることで
陸に上がり、空を飛ぶ
さまざまな生物が生まれた。
人間もその1つ。
しかし、多細胞になったことで
同時に数多くのDNAを持つことになり
それは生命活動の中で
傷つきやすものとなった。
(ストレスや外的刺激によって)
その傷ついたDNAを
子孫に受け継がせていくことは
その種の絶滅につながる。
だから、
多細胞生物は
自らを細胞を消去する機能を
獲得した。
その機能によって
古い細胞はどんどん消されていく。
全ての細胞が消えていった時に起こること。
それが「死」だ。
つまり、
人は生き続けるために
自ら死んでいく。
という結論になる。
だからと言って、死は軽くならない
この世界に入ることは
相当、迷った。
軽い気持ちで、足を踏み入れていい場所だとは
思えなかったから。
何十年ぶりに履歴書を書いて
しばらく眠らせてた。
でも、勉強すればするほど
やっぱり魅了されたから
思い切って、求人に応募をしてみた。
幸い、一番働きたいと思っていた会社で
採用をもらえた。
24時間365日の業種。
そらとくらすを続けながら。
どんな暮らしが待っているか分からないけれど
葬祭ディレクター
目指してみようと思う。
教室から葬儀場まで
見通せるようになったら
また世界が変わって見えるはず。
期待と不安
半分こで、進んでみる。
サポートしてもらえたら、飛び跳ねるほど喜んで、もっと良い記事を書こうって頑張る子です。よろしくお願いします♪