認知症の準備はいいですか?
ちょっと前から認知症に興味がある訳でして、病気としてではなく
「認知がバグる」
ってのが面白いな、と。
※こういうのをわざわざ言うのはバカバカしいですが、ここでいう「面白い」はバカにするとか軽んじてるって意味ではありませんのであしからず。
んで、ちゃんと勉強すると”認知がバグる”と”思考がバグる”若しくは”感情がバグる”や”行動がバグる”は全く違うものだと理解できた。
認知は、思考や感情・行動の入り口ではあるが、あくまで入り口でしかない。
まぁ、その入り口がバグるんだから出口もバグるのは当然なんだが…
しかし、出口がバグったからと言って、思考や感情はバグってないんですよ←ここ重要!
んでね、他人事として楽しんでおりました認知症ですが、晴れて去年父親が認知症になり自分事になった訳です♪
いやぁ、事前知識が役立つ事役立つ事!
この何が役立ったか、ってのも気が向いたら書きます(笑)
後はね、トーヤ父が徘徊したらどうする、の準備として娘がトーヤスマホの位置情報にアクセスできるようにしております。
もうね、パチンコ屋でサボってるのがバレようが、ラブホでデリヘルに遊んでようが、そんなのを娘にバレたって知ったこっちゃないんですよ
なんなら、トーヤの居場所を知り合い全員に知ってもらった方が、探すの楽かもしれんなぁ
そんなこんなで、認知症の家族になった訳ですが、それはそれでもっと勉強したいと思いだしたわけです。
んで、今月9月は認知症月間でして、認知症に関するイベントが色々とございました。
そのひとつに、リバーウォークで「オレンジランプ」という認知症を大税にした映画の上映会がありました。
それに、娘を引き連れて言ってきたわけです。
これを見て思った事が4つほど。
1.誰でも壊れる
2.でもなんとかなる
3.健常者が楽になる生活は病気の人でも楽
4.「好きな人の記憶が無くなる」とはどういうことか
1の誰でも壊れる、ってのは認知症だけの事ではない。
地震や台風などの自然災害もあれば、不況や財政破綻といった経済的な破壊もある。
そして、交通事故や心筋梗塞、うつ病などの病気もある。
いつ壊れても、いつ死んでもおかしくない。
だから、いま生きてる事に感謝…って話を娘にしたら
「そんなんいつもいつも考えるの無理くない?
そういうのは何かのきっかけで感謝して、こんな時はどうしようかって考える程度でよくない?
毎日毎日感謝感謝してたら生きるの苦しいやろ」
と。
うん、そうだね、賛成です(笑)
って事で、毎日は考えないけど、酒のつまみ程度に考えようと思います。
(するってぇと毎日って事になるのか)
2.でもなんとかなる、というのは結構日本って捨てたもんじゃないということ。
多分、「助けて」って言ったら何とかなるんろな、と。
ただね、この言葉は無茶苦茶勇気がいると思う。
なぜなら、人間は”助けたい”生物だから。
この「助けて」が言いやすい世界(まぁ、せめて身近な北九州市)がそうなると安心して病気になれるけどなぁ、と。
あ、そうそう、この上映最後に主人公のモデルになった認知症の方がメッセージをくれていて
「認知症でも生きやすい北九州じゃなく、安心して認知症になれる北九州になれると良いですね」
って言ってて、まさにそうだな、と♪
3.健常者が楽になる生活は病気の人でも楽、ってのは健常者の苦痛を解決すると、結構病気の人も楽になるよって事。
この映画では、認知症になったが生活の色んな工夫により乗り越えてる姿が描かれている。
その中に、「自分が何をしたら良いか忘れる」事の克服でスマホのアラームを使ってるシーンがあった。
おや?
これ、トーヤもやってるじゃん?
また、別のシーンでは明日やる事を前日書き出して、翌日そのやる事が終わる度にチェックを付けて実施終了を記録してる。
ん?
これもトーヤやってるじゃん?
と言うか、厳密に言えば
「それをやらないとトーヤも生活できないもん」
なのである(笑)
一瞬
「という事はトーヤも認知症になってるって事か…」
と解釈したけど当然それは間違ってる訳で(いや、そう言い切れるだろうか?)
認知症じゃない人でも、そういう工夫をした方が生活しやすいよね、って話なんだと思う。
だってさ、グラハムベルが発明した電話って、最初は耳が聞こえない人の為に作ろうとした機械なのよね
キーボードも目が見えない人の為に作られたって話を聞いた事がある
それが、今では障害者の為ではなく、健常者が便利に使ってる訳ですよ。
翻ってその逆も同じ事が言えると思っていて、我々が少しでも不便だなって思う事を積極的に改善すると、結局は病気や障害を持ってる人も生きやすい世界になるんじゃないか、と。
最後の 4.「好きな人の記憶が無くなる」とはどういうことか、ってのは全然答えは出てないんだけど、娘と一緒に話した話題。
なんだろ、よくさ相方とかに
「あの時、こんな事したよねぇ、楽しかったよねぇ!」
とか言われるけど、びっくりするくらい覚えてない時あるじゃん。
っつうか、ほとんど覚えてないじゃん。
寧ろ、行った事は覚えてるけど、行った相手を間違う事すらあるじゃん。
んで、すっげぇ怒られるじゃん。
それってさ、やっぱり覚えてないといかんのかね?という命題。
いや、共通の話題や記憶がある事って嬉しいという感情は分かる。
分かるには分かるが、覚えてないものは覚えてないのよ。
なんて開き直ったら
「あなたは私に興味がないのよ!」
とか言われるけど、別に興味がない訳じゃないと思うけども…
覚えてない=興味がない
という数式が成り立つならそうなんだろな、と思う訳ですよ。
でもね、そこで俺が小芝居を打つとするじゃん?
覚えてもないのに
「あぁ、あの時の事ね!楽しかったねぇ♪」
と言ったら、恐らく相手は喜ぶよね
でもさ、事実は覚えてない訳よ
つまり
「同じ記憶を共有している」
事を喜んでいるのではなく、厳密に言えば
「同じ記憶を共有していると”思い込んでる”」
事を喜んでる訳ですよ。
そうするとですよ、覚えてる事実なんて実は不要なんじゃないかな、と。
これ、別にトーヤの言い訳をしてる訳ではなく、実際に認知症や記憶喪失になったらどうですか、って予行演習なんです。
でもねでもね、じゃあトーヤは一緒に行動した人の記憶がなくっていいんですか、と問われればそりゃ嫌ですよねぇ…となるんですよ(笑)
あ!
後、最後に無茶苦茶痛烈なキーワードがあったので、それを記しときます。
『普通の病気は「早期発見、早期治療」だが
認知症は”早期発見、早期絶望”であった』
なんで、早期絶望なのよ、と。
これは、認知症の治療は「認知症」と病名が付かないと始められなかったらしい。
なので、「認知症疑い」のような予備軍には投薬や治療がされなかったとの事。
つまり
「認知症になったからまた来てね♪」
って世界だった、と。
警察とかでもよく聞く話よね
「襲われてから来てください」
的な(笑)
でも、このコンプライアンス重視な世の中、ある程度の線引きは必要なので、そのルールも理解できる。
理解できるけども、とても辛い状況だよなぁ、と思った次第です(´;ω;`)ウゥゥ
とは言え、少しずつその辺りのルールは変更されてるんですが、流石に文章長くなったのでそれはまた気が向いたら書きます。