支石墓について
私の本業は地下資源の探査に関する研究&教育ですが、副業(?)として遺跡探査の研究もしています。本業の地下資源探査では、主に地熱や鉱物資源の探査に関する新しい手法の開発や新しい機器開発などを実施しています。また遺跡探査については、遺跡フィールドでの調査を行なうケーススタディがメインです。
福岡市西区の九州大学の伊都キャンパス内には、前方後円墳を始め、各種の遺跡/遺構が存在していますし、そのお隣の糸島市にも多くの遺跡/遺構が存在しています。時々、地方自治体の要請を受けて遺跡探査を実施することがありますが、新町支石墓群もそのような経緯で調査した遺跡です。
支石墓は、ドルメンともいわれ、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種です。支石墓はタイトル写真のように、基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとります。写真の支石墓は、新町遺跡展示館で飾られているレプリカですが、本物は長軸方向が2mもある花崗岩の巨石です。
最も古い支石墓は西ヨーロッパだったと考えられていますが、西ヨーロッパの支石墓が世界各地へ伝播したのではなく、それぞれの社会発展状況に応じて、全く別個に世界の各地域で支石墓が発祥したとする見方が非常に有力となっています。不思議なことですが、まったく別個に各所で多発的に現れたようです。日本では、北部九州に支石墓が集中しています。なお、対岸の朝鮮半島には多くの支石墓が存在していますが、中国には今のところ見つかっていません。下の写真は、アイルランドの有名なドルメンです。
新町支石墓群は、糸島半島の西側の引津湾に面した砂丘上に築かれた遺跡で、1917年に九州大学医学部教授の中山平次郎博士が紹介しました。その点でも、新町遺跡は九大と深い縁があります。1986年からは発掘調査が行われ、大陸に由来する墳墓である支石墓や副葬小壺などが出土、鏃が刺さったままの人骨も発見されたことから、日本初となる弥生早期の戦死者ではないかとして大きく注目を浴びた遺跡でもあります。
物理探査学研究室では、糸島市の委託を受けて新町遺跡全域の地中レーダ探査を実施しました。その調査で、支石墓の可能性が高い場所の一部が発掘されましたが、そこから出てきたのは近代のゴミの山でした。しかし、支石墓の痕跡も一部残っていて、元々は支石墓だった場所の窪地をゴミ捨て場として利用したようです。
新町遺跡の範囲は広大で、全てを発掘することはできませんが、最新の発掘で支石墓の一部が見つかりました。発掘された一部だけでも2.5mはある大物です。しかし、この支石墓が道路の下に埋もれているため、全体の発掘が出来ません。そこで、地中レーダで支石墓の範囲を絞り込む地中レーダ探査を実施することになりました。地中レーダ探査は、来週以降に計画していますが、新発見があればこのブログでも紹介したいと思います。
弥生時代早期から前期にかけて築かれた糸島市志摩新町の『新町支石墓群』は、2022年度中に策定される『国史跡 新町支石墓群整備基本計画』に沿って遺跡公園として整備されることになっています。新町遺跡の今後が気になります。
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