ストロベリー・フィールズ・フォーエバーとペニー・レイン
ふたりが愛情を込めて故郷への想いを形にした。新境地にいたる幕開けにふさわしい曲だ。この地に足を踏み入れた時の想いをとどめておく。
この7月に敢行した聖地巡礼の興奮冷めやらず、聖地を訪問した者が罹患する後遺症が進んでおり、完治には再訪しかないといわれている。
東京での処方箋として、イギリスからの帰国後にストロベリー・フィールズ・フォーエバー(以下ストロベリー)とペニー・レインを聴き直した。
私は後追い世代なので最初にこの2曲を聴いたのは、高校生の頃だと思う。ペニー・レインは、とにかく底抜けに明るく澄み切った綺麗なメロディー、口ずさみやすい曲。一方のストロベリーは、ジョンの気だるい歌唱法を含め不気味さが漂い、エンディングでは恐怖さえ感じて正直不安になる曲だった。
「分かりやすい曲」と「分かりにくい曲」というのが第一印象だった。
ストロベリー・フィールズ・フォーエバー
マニラ騒動、キリスト発言報道を経て、1966年8月29日、サンフランシスコのキャンドル・スティック・パークのコンサートを最後に彼らはツアーを取り止めた。
その後、9月18日にジョン・レノンとロード・マネジャーのニール・アスピノールは、ジョンの映画「ジョン・レノンの僕の戦争」撮影のため、かつてブライアンと訪れたスペインへ向かう。ビートルズとしての映画撮影のない空き時間、ジョンは個人的に映画出演に応じた。
たっぷりとあった映画撮影の待ち時間にジョンは、戦争映画に出ることを含め「これからどうすべきか」を考えながら、アパートのベッドでアコースティック・ギターを弾いて、6週間かけてこの曲を完成させた。
ジョンの旧友ピート・ショットンによると、ジョンはよくこぼしていたと言う。「もうビートルズでいるのは嫌になった。ビートルズという名前を返上して自由になりたい。本当の自分に戻りたい」と。
当時発表されたこの曲は、分かりずらい歌詞により、聴き手側にその解釈が委ねられたが、ジョンの古くからの親友でもない限り、幼少期のジョンの気持ちが分かる筈もない。重い歌唱法、不気味な音、不安定なコード、ジョンの揺らぐ心が歌詞にも反映され、不安な気持ちになる曲だ。ジョンのこの時の心情と心象風景は、不安に取り囲まれていたからだ。
9月30日にアメリカの新聞は、ビートルズのツアー取り止めを報じているが、マネジャーのブライアン・エプスタインはその日に自殺未遂。ジョンはブライアンの深い苦悩を知るに至り、「これからどうすべきか」をより真剣に考え始めたと思う。この事実も曲に不安として反映されているのは間違いない。
そして、幼少期から思っていたことが頭をもたげ「俺はほかのやつと違うんじゃないか。意識下の幻覚が見えてしまう。」、「いい大人になれと言われるが、俺はごめんだ」という自分の言葉を言霊のように反芻する。
リバプールのダブデイル小学校の時から、自分は他の生徒たちと調子を合わせられず、また先生から立派な大人になれと言われたことが引っかかっていた。
まとまりのない、いろいろな思いがゆらゆらと揺らめいている曲だが、ジョンは自分の気持ちに確信が持てないときは、素直に心情を吐露する。Revolutionで同調するinと、離反する outを使い分けたように。まとまりのない思いがYesだけどNoなどと歌詞にも表れており、完成した音とともに揺れている。
そして出来上がった曲はジョン自身が言うように「曲がついた精神分析」だった。自己分析した曲!高校生の私では分かる筈もなかった。
まして、木の高低がミミおばさんの家(Mendips)の裏庭にあった木で擬人化していることだ、と辿り着くのはずっと後だった。
この曲は、イントロのポールのメロトロン、ジョージのソードマンデル(インド楽器)でミドルエイトへ、ジョージ・マーティンのストリングスとテイク繋ぎ合わせを経て、当初11月24日スタジオに持ち込んだ原曲からほど遠いヘビーな曲として完成し、イギリスで翌年1967年2月13日に発表された。当初のタイトルNot Too Badは、Strawberry Fields Foreverになった。
ジョンは、何故この曲のエンディングに恐怖・不安を持ってきたのだろう。たたみかけるドラム、救急車のサイレンのようにうるさく響き渡る甲高い音、そのなかでかすかに混じる気味悪い声。
今となっては私にはI buried Paulと2回呟いているものをわざわざ採用したとしか聴こえない。
ジョンはこの曲でポールを葬り去るために、呪いのようなエンディングにしたのかもしれない。この後に続くペニー・レインは明るすぎるからだ。潜在意識下で「おまえ、なんでそんなにアッケらかんなんだ!」と。
この地に足を着けた時の印象は、霧が立ち込めるような幽玄さだった。独特のデザインの門が来る人を拒んでいるかのように、こちらとあちらの世界を分断しているようだった。
今はかつてあった大きな孤児院を見ることはできないが、ジョンはその景色も見ていたのだろう。成長するにつれ、別の孤児院にいた父アルフレッドのことも考えただろう。
ジョンは、このなかで遊び、時にはひとりで自分の心の中を覗いた。ジョンにとっては静かに考えることのできる絶好の場所だったように思う。
「俺をひとりにしてくれ」と外界からの侵入を拒むような、ジョンにとっては神聖な心の拠り所だったのだと思う。
ペニー・レイン
ジョンは1965年10月にIn My Lifeを録音している。ポールはそのことを意識していたと思うが、同年11月に「Penny Laneという響きが好きなので、いずれその曲を作りたい」とインタビューで語っており、その頃からジョンを追って同じように故郷を題材とした曲づくりを構想していた。
そしてポールは、1966年の12月29日にこの曲の録音を開始している。この時、すでにポールの頭の中には、アルバム、サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(以下SGT)の構想があり、1967年1月にはSGTも録音を開始している。
ペニー・レインとストロベリーの2曲はすでにアルバムSGTの中に組み込まれて録音されていたが、プロデューサーのジョージ・マーティンはブライアンの要請に応えて2曲をシングル曲として渋々渡し、この時点で2つの曲はアルバム・コンセプトから外れた。
そして、2月にはイギリスで2曲ともA面扱いで発売された。
ペニー・レイン通り(地区)に住んでいたのはジョンだけだったが、曲を作ったのはポールだ。
ポールは、「澄み切った」音にこだわり、その結果底抜けに明るい歌が出来た。
ポールにとって、この地はやはり楽しい思い出が多かったのだろうと思う。
ジョンのように故郷の心象風景を入れず、外に見える風景だけ。このポール目線がとても暖かいのだ。まして、ポールのメロディー・ラインは心が弾むようで申し分ないし、ビートルズの曲のなかでもこれほど歌詞(風景)と調和した音はないと思う。
田舎の青い空、バス・ロータリー、床屋さんの写真、ポピー売りの少女、銀行員、消防士など、ポールにとっては、良い思い出が詰まった美しい風景だった。一発録りとなったピッコロの絶妙なメロディー・ラインの突き抜けるその音は、見事に田舎の青い空そのものだ。
いろいろな人々が集う、なにげない日常風景のある明るい場所、ストロベリーとは対照的に、人々を惹きつける場所、というのがこの地に着いた時の第一印象だった。
ふたりにとっての故郷
ふたりの曲は、示し合わせたように故郷をテーマにしたものだが、ふたりの作曲アプローチ、出来上がった曲は全く違っていた。
故郷を想って自分の心の内を探して作ったジョン、見える景色ありのまま、普通の人々への視線そのままを歌ったポール。2つの曲の性格は正反対だが、これにはふたりの考え方、性格が大きく起因していると思う。
このシングル発表で社交的なポール、内省的なジョンが完全に出来上がってしまった。
故郷は遠きにありて想うもの
私は室蘭で生まれ、3歳以降高校まで札幌で育っているので、自分の故郷は札幌だ。
個人それぞれで故郷への想いは違うが、生まれた場所、両親がいる場所、帰ることができる場所、幼少期に遊んだ場所、青春を過ごした場所、人生の中で最も血と汗と涙を流した場所、書を捨てて街に出て想い返す場所だろうか。
心も体も変化して、ものの見方も変わってくる成長期に見る風景、感じる風景、人とのつながり、懐かしい思い出が混じったのが故郷だ。自分を育て自分が出来上がっていった、心の拠り所として想い描く場所だ。
成長し飛躍を続けた彼らにとってリバプールは、懐かしい思い出を手繰り寄せる場所となり、ふたりはそれを曲として形にした。
故郷とどうケリをつけて曲にするか、ふたりは少なからずとも悩んだはずだ。
青春を謳歌した田舎リバプールから、野望に燃えて都会ロンドンに出てきたが、やはり彼らの故郷はリバプールだった。
この2つの曲は故郷への愛を歌っているが、惚れた腫れたの恋やらの単なるラブソングの類ではなく、形は違えど自分の心の内に踏み込み、心の内を曝け出し、自分たちの思い出を歌に託した。
ノスタルジーだけに陥ることなく、自分の大切な記憶を形にした。
この2曲は他の誰かがカバーして歌って響く歌ではない。
ストロベリーは、ジョン・レノンその人が歌わないと完結しない。ポールはかつてリバプール公演の時にメドレーでこの曲を歌っているが、唯一許される歌い手だと思う。
ペニー・レインもポール・マッカートニーが歌わないと全くリアリティがない。この2曲は個人的な故郷への愛を込めた歌だったからだ。
リバプールは初めて訪れたが、人口50万人で街のスケールもこじんまりとしており、2008年に欧州文化首都に選定されただけに景色もきれいだ。
ビートルズを生んだ街だが、イギリスの旅客船会社キュナード・ラインがアメリカとの定期航路をもっていたことから、リバプールにいち早くロックが持ち込まれ、文化の多様性も生まれた。そこに住む人々の気質も好きで住みたい街だ。
帰国してこの2つの曲を真っ先に聴いたのは、リバプールで見た風景を忘れまいとしてだったが、忘れる筈はなかった。
ストロベリー・フィールズの赤い門、Mendipsのジョンの部屋、ポールの家、ペニー・レインの青い空とロータリー・・・・。
脳裏に焼き付き体に沁みたこの風景は、二つのこの曲を聴くたびにいつでも甦る。帰国後の後遺症に効く治療薬としてはもってこいの歌だ。
故郷から去りゆく人、とどまる人、遠くで想う残されたものは、去った人々の記憶を辿り自分の人生を振り返りながら生きていく。
(了)
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