目線で変わる物事
小学生の時、自転車に乗って街のアチコチに出向き遊んだ。
自転車に乗れるようになって行動範囲がすごく広がった。
あの頃の僕は自転車で移動している自分が中心で、車の存在や車を運転している人の気持ちなんてわからなかった。
『気をつけて!車は急に止まれない!』
標語もぜんぜんピンとこなかったのだ。
ある時、同級生が車に跳ねられた。
軽い怪我ですんだ。
僕はなんで彼が車に跳ねられたかわからなかった。
大学生になり自分も車を運転するようになり、
自転車に乗っている小学生が邪魔くさいと思った。
そして急に飛び出してくる恐怖も感じた。
小さく子供のころ、駐車場を歩く時に、
いつも母親が手を繋いでくれた。
その意味もよくわからないでいた。
駐車場は危ないからね。と言われても。
自分が車を運転するするようになって
自転車の乗り方が変わった。
車に気をつけるようになった。
車を運転している人の気持ちがわかるようになったからだ。
駐車場での運転はとても神経を使う事を知った。
車の影から飛び出して来たらどうしよう?
あの日の母の気持ちを理解できた。
今、僕は自宅の江別から新札幌までの10キロちょっと道のりを自転車で通っている。
風を切って走る気持ちよさを思い出した。
そしてまた、自転車に乗る人の目線で世界を見ている。
立場が変われば、物の見方が変わる
その立場にならないと見方を変えれない。
人間の苦しみの解放を目的としている僕としては、
色々な物の見方を知る必要がある。
その人に立場で考えろ。と良く言うが、
その人の立場になってら考えて考えて考えて、考えてみても、事実とは違ってくるんじゃないのか?
わかったつもりになってはいけない!と自らを律します。