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ひでのプロフィール

はじめまして!こちらのページに来ていただいきありがとうございます(^^)

僕は今のところ顔出しもしていないし、本名も出していないので、「何者なの?」というのが見えづらいかなぁと思うのですが、この記事で色々お伝えしていきたいなぁと思います!

■ 1995年 千葉県に生まれる

僕は1995年8月21日(僕は勝手にハニーの日って名付けてますw)に生まれました。

千葉県出身で、今も千葉県内に住んでいますが、2023年頃には住む場所を変えたいなぁと考えていて、「鎌倉付近に住みてぇ!」という願望があり、この記事を書く直前にもネットで物件を探していました(笑)


幼稚園に入ってからはサッカーをやったり、造形教室に通ったりもしていたのですが、小学校にあがるタイミングで地元の少年野球チームに入ることに決めました。

というのも、5個上の兄貴がすでにそのチームで野球をやっていたのですが、当時幼稚園生だった僕も一緒に週末の練習に遊びに行ってたんです。


さらに、父親もコーチをやっていたので、「ひでもちょっとボール投げてみるか?」とか「バット振ってみなよ」とそそのかされ、ボールを1球投げただけで周りの大人たちが「すごーい!ひでくん上手だね!」と褒めちぎってくれました。

そんな感じでベタ褒めをくらった僕は、「おれも野球やりたい!楽しい!」みたいな感じになっていったんです(笑)


そして、幼稚園を卒園するタイミングで少年野球チームに入るという流れになり、高校3年生まで野球人生を送ることになりました。


■ 2011年 地獄の高校野球スタート

2011年、この年には東日本大震災がありましたよね。

僕は当時中学3年生だったのですが、卒業式の1週間くらい前に地震が起きてしまったので、式当日はかなり縮小された形だったなぁと、そんな記憶も鮮明に残っています。


まだまだ安心できない状況のなか、僕は4月から高校生になったのですが、この高校がほんとーーーーに過酷な環境でめちゃくちゃ地獄だったんです(笑)

まじで「今だから笑える」という話がゴロゴロあるのですが、そもそもなんでそんな高校に入ったかというと、「甲子園に行きたい!」という想いが強かったからです。


甲子園に出ることは僕の大きな夢だったので、その夢を達成でき得る高校はいったいどこなのだろう?という観点で選んだところでした。

しかし、やっぱりそれだけの環境だったので、身体的にも精神的にもなかなか追い込まれていましたねww

(毎日弁当とおにぎり合わせて米を10合持って行っていました。ガチです。笑)

■ 2014年 浪人生活がはじまる!

高校3年生で夏の大会を終えて野球部を引退しましたが、そこからめちゃくちゃ解放されてしまって、学校生活を楽しんだり、家でゴロゴロしたり、辛い練習が無くなった日々を堪能しまくっていましたw

そんな僕は受験勉強はやっているフリをしていたために、試験本番は惨敗して全落ちをかましました(笑)


ただ、「やべぇ、流石に勉強サボりすぎたか」と思ったので、全部の大学が落ちたとわかったその日から、翌年の受験に向けて勉強を開始しました。

高校の卒業式よりも前から勉強をはじめたわけですが、卒業してからは朝6時〜10時までスーパーの品出しでバイトをして塾費を稼ぎ、日中は家で勉強して、夕方から個人経営の塾に行く、みたいなリズムで過ごしていました。


第一志望は早稲田の教育学部でしたが受からず(試験当日にとある事件があったのでゆくゆく話しますww)、第二志望の立教大学の法学部に進学することになります。

「法学部」を選んだのは法律を勉強したいからではなく、「社会の教員免許が取れるから」という理由でした。


実は高校3年生の頃、漠然と将来のことについて考えていた時に「高校か中学の先生になりたいなぁ」と思っていたんです。

中学生くらいからこういう気持ちがちょっとずつ芽生えていたのですが、いざ進路を考えるという段階にきてより鮮明になっていった感じですね。

■ 2015年 立教大学法学部に入学

ただ、大学に入ってから教員免許の授業を受けたり、実際に法律を学んだりする中で、「うーん、自分が本当にやりたいことって先生なのかな?」と疑問が生まれてきました。

もっと広い世界が待ってるよね、っていうことに気づいたし、そっちの方がわくわくするなぁと感じたので、1年生の後期の段階で教員免許の履修を辞めることにしました。


ちなみに大学時代は野球サークルに入って練習したり、飲んだり、合宿したり、遊んだり、旅行したり、みたいな感じでしたね(笑)

バイトは池袋の西武百貨店クレジットカードカウンターや、東京駅のブリティッシュバー、他にもいくつか飲食店や派遣など、色々やっていました!笑


3年生の夏頃から徐々に就活に取り組むようになったのですが、池袋にあるとこなつ家という就活や転職を支援しているバーに行って学校外の人と話したり、Matcher(マッチャー)というアプリで社会人に会いに行ったり、「人と会う」ということをたくさんしていました。


3年生の2月頃にリクルートの社員さんと会ったことをきっかけに、「おれもリクルート入りたい!」という想いがふつふつと沸きはじめ、そこから徐々に「人材系」の会社を見ていくようになりましたね。

リクルートの社員さんにも合計で20人くらい会ったと思いますが、その中でも「リクルートスタッフィングが自分に合うかも」ということに気づき、そこからはリクルートスタッフィングに絞って就活を進めていました。


そして、4年生の6月1日に無事に内定をいただくことができて、そこで僕の就活は終わりになりました。


その頃から「次の世代の就活生たちの力になりたいよね」という想いが一致した、就活中に出会った他大学の友達2人と「SIM(シム)」という就活支援団体を作りました。

(名前の由来は「(S)先輩と(I)一緒に(M)まっすぐな就活を」というダサネーミングですw)


SIMでは、定期的に面接対策会や企業研究会を都内の会議室で開いたりしていました。

僕個人としては、後輩の就活生30人〜40人とカフェで4時間くらいぶっ通しで自己分析を一緒にやったり、とにかく深掘りして本質を探る、みたいなことばっかりやってました(これがめっちゃ楽しかったw)


最終的にはSIMのLINEグループが100名を超えるまでの規模感になり、たくさんの後輩たちを支援することができました!

■ 2019年 株式会社リクルートスタッフィングに入社

無事に大学を卒業して、2019年4月からリクルートスタッフィングに入社しました。

飛び込み営業をしたり、テレアポをしたり、新規顧客がメインで人材派遣ビジネスの営業マンとして奮闘していました。


法人営業だけではなく、実際に働いている派遣社員さんのサポートのために毎月面談をしたり、時にはメールや電話で仕事や家庭の相談に乗ったりもしていたんです。

たとえば、「仕事でもっとスキルを上げて転職してみたいんです」というキャリアの話しから、「実は家族の中で大変なことが起きちゃって…」という踏み込んだ話まで、ほんとに様々なことを話していました。


派遣社員さんと面談しているとき、僕は「目の前の○○さんは今何を思っているんだろう」と想像しながら、「どんな未来を実現していくのが○○さんにとっての幸せに繋がるのか」と考えて話していました。

この時間が僕にとって一番楽しくて充実していたなぁと思います。


ちなみに、最初に配属されたエリアが「六本木1丁目〜7丁目」だったんですが、六本木とか行ったことなかったんでめちゃくちゃ苦労しました。

というのも、僕は大学時代に“前代未聞の方向音痴”という異名を持つほど道を覚えるのが苦手だったんですww


営業マンとして方向音痴は致命的やん!って感じですが、文明の利器を最大限活用しながらなんとか頑張っていました(笑)

■ 2020年2月 母が末期癌で余命宣告を受ける

社会人1年目がそろそろ終わろうとしていた2020年の2月1日。

母が膵臓癌の末期癌(ステージ4)と診断を受けました。


しかも、「抗がん剤治療をしても1年未満。治療をしなかったら半年未満の命と思ってください」と、余命宣告まで受けてしまったんです。

僕はその知らせを父親から電話で聞いたんですが、涙が止まりませんでした。


当時24歳だった僕は、「あぁ、人間っていつ死ぬか本当にわからないんだ」という当たり前のことを、強烈に意識するようになっていきます。

それから紆余曲折ありましたが、最終的には「おれもいつ死ぬかわからないんだから、挑戦したいことを今やろう」ということと、「母の命の期限が決まっているんだから、それまで全力でサポートして幸せな時間をたくさん作ろう」と思い、会社を辞めることを決意したんです。


そして、リクルートスタッフィングに入社してから約1年5ヶ月経った2020年8月末、正式に退職することになりました。

■ 〜現在に至るまで

会社を辞めてからは自分でブログサイトを立ち上げて、そこから広告収入を作っていました。

この哲学ブログとはまったく違うジャンルだったのですが、最終的には16万pvまで伸ばすことができて、その経験が今でも生きていたりします。


もともと「ブログ運営をやりたかった」というわけではなく、母のサポートを優先するために「時間の制約がなくできることは何か?」という観点でブログをやると決めました。

なので僕は、自分の時間を作ることよりも、「母が幸せな時間を過ごすこと」を一番大切に過ごしてきました。


最終的に母は2021年12月6日に亡くなりましたが、ほんとに最後の最後まで幸せな時間を過ごすことができたので、僕たちの残された家族みんな、一切の後悔なく今を過ごすことができています。

(母は余命1年を309日も超えて生きることができました)


母が亡くなる直前、入院していた病室で母と交わした約束を胸に、僕は「自分の人生を生きるぞ」という想いですぐに行動していきました。

2022年の元旦から「対話コミュニティ」をスタートしたんです。


月額500円のオンラインコミュニティの運営というのは初めての挑戦でしたが、そこでたっくさんの深い話ができたし、超楽しい時間を過ごすことができました。

2022年3月末までの期間限定の運営だったのですでに終了しましたが、僕にとっては「一生の宝物」になりました。


そして、現在は僕が立ち上げたサービスである「探求カフェ」の運営と、ご縁のあった方と一緒に教育関連や対人支援関連のプロジェクトを進めています。

2023年4月頃をひとつの目標に、もろもろの活動を形にしていきたいと思っています。

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