人間だからこそ起きた未曽有の災害
2003年2月に韓国東南部の大邱(テグ)広域市で発生した地下鉄車両に対する放火事件では、乗客など192人が死亡し、148人が負傷する大惨事となりました。死者が多かったのは、犯人が放火した車両ではなく、火災発生から3分後に入線した対向車線の列車内であり、おそらくこの車輌の車掌や乗務員も状況を把握していなかったに違いありません。この対向列車内で撮影された写真では、避難指示はなかったとはいえ、目の前まで煙が充満しているにもかかわらず、人々は平然と座席に座っている姿が写し出されていました。彼らはどうしてすぐに避難しなかったのでしょうか。
過去に日本でも、津波警報や洪水警報が出され、避難勧告が発令されても多くの人々が避難しなかった例があります。災害が発生したとき、人はどんな心理状態に陥り、とっさにどんな行動をとるのでしょうか?防災や危機管理を進める上で、こうした人間心理を解明する社会心理学や災害心理学の分野では、すでに「正常性バイアス」や「同調性バイアス」とよばれる人間の集団心理が指摘されていました。
2011年3月11日に発生した「東日本大震災」でも、この「正常性バイアス」や「同調性バイアス」など、すでに解明されていた人間の集団心理が、ものの見事に働き、多くの犠牲者が出たことを知り、悔やまれてなりません。一体、あの日、人々はどう動いたのでしょうか。その年の10月2日放送のNHKスペシャルが、宮城県名取市閑上(ゆりあげ)町の例を克明に検証していました。
あの日、私の勤務していた埼玉県西部に位置する中学校は、土曜の午後の部活動中で、私は会議室で同僚と、卒業証書をフォルダーに差し込む作業をしていました。突然の激しい揺れに、スチール製のロッカーが倒れそうになり、私たちは卒業証書を守るため必死でロッカーを押さえました。校内放送で避難指示が出され、校庭に集合し、生徒の安否、ガス漏れ、水漏れ、校舎の状況を確認して、通常の活動に戻りました。
地震が発生してから、ちょうど1時間10分ほど経過してから、津波は、やってきました。この間に、避難しようと思えば、みんな避難できたのです。しかし、人々は、「正常性バイアス」や「愛他行動」、「同調性バイアス」という心理が働き、逃げ遅れたのです。
「バイアス」というのは、「偏見」「先入観」「思い込み」という意味です。災害や事件など過去に経験したことのない出来事が突然身の回りに起きた時、人は、その周囲にいる多数の人々の行動に左右されてしまうそうです。人は、どうして良いか分からない時、周囲の人の動きを探りながら同じ行動をとることが安全だと考える「多数派同調バイアス」(集団同調性バイアス)に支配されてしまうのです。周囲の多数派の意見や行動を無意識に正しいと思い込むようになり、自分で正しい選択を行えなくなるのであり、他人とは異なる選択をするのに恐れが出てしまい、自分一人が異常事態だと主張するのが心理的に困難になることを示しています。
避難所の公民館のラジオからは、「津波の高さは10メートル。宮城県の津波の高さは10メートルです。」と重要な情報が流されていたのです。しかし、避難所の人々は、仲間と立ち話をしながら、「何を言っているのだろう」くらいにしか注意を払っていなかったのです。公民館と中学校の間の道路には、背後から津波が迫っていながら、渋滞する車が列をなして並んでいました。早く降りて、走って逃げれば助かったのです。地震発生後に海の様子を見に行った男性が、沖合から津波が迫ってくるのを目撃し、慌てて自転車で内陸に逃げながら『津波が来る!今すぐ逃げろ!』と大声で呼び掛けたにもかかわらず、多くの住民は聞く耳を持たず、中には『うるさいっ!』などと言い返された、という驚くべき体験もあったといいます。
巨大地震に見舞われながら、異常事態=緊急避難というスイッチはなぜ入らなかったのでしょうか。「最初は、まさかこんな大変なことになるとは思わなかった」「周りの人が避難していないので、自分もじっとしていた」と話しています。まさに、「正常性バイアス」に支配された結果でした。「正常性バイアス」は、正常への偏向、日常性バイアスとも呼ばれています。つまり、多少の異常事態が起こっても、それを正常の範囲内、日常の延長としてとらえ、心を平静に保とうとする働きのことです。「落ち着け。取り乱してはいけない。」この働きは、人間が日々の生活を送るなかで生じるさまざまな変化に、心が過剰に反応し、パニックを起こさないために必要な働きです。ネズミなら、一目散に逃げたに違いありません。しかし、人間のこの働きが度を過ぎてしまうと、道路に水があふれ、液状化現象が起きても、まだ平静を保とうとして、避難が遅れてしまうのです。「逃げろ。津波が来る。」といわれても、まだ半信半疑で、避難所には「あいまいな空気」が漂っていたと津波に流され、九死に一生を得た人は語っています。
実際、避難が必要となった人々や行政など避難を誘導すべき人たちに「正常性バイアス」が働いたため、被害が拡大した災害は多い、と指摘する専門家もいます。日頃から災害時にはどう対応すべきかを考え、異常が発生した場合には、根拠のない楽観ムードは排除し、客観的に対応することが大切です。
最後に、「愛他行動」(自分よりも他人を助けようとすること)によって、津波が押し寄せる直前まで救助活動に携わった人々がいたことです。これだけは、研究が進んでも、防ぐことはできないかも知れません。彼らは、一人暮らしの高齢者の家を回り、最後の瞬間まで、救助活動を続け、自らは津波の犠牲になったのです。災害時など極限状態の中で強まる心理状態で、他の命を救おうとして、自らの命をも失ったのです。
今助けに戻れば自分の身も危険にさらされると認知していたにも関わらず、「愛他行動」をとった内的要因には、高齢者の置かれた状況に対する常日頃からの認識を前提として、その状況に対する共感(シンパシー)がわが身の危険を省みない行動に駆り立てたことを思うと涙を禁じ得ません。人間の心の奥底にある慈悲の心がそうさせたのです。
「正常性バイアス」も「同調性バイアス」も、そして何より「愛他行動」は、人間だからこそ起こりうることであり、それが被害を拡大したことを思うと、この大震災を確固たる教訓としなければならないと思います。
「幸福とは、健康と物忘れの早さである」という言葉は、アルベルト・シュヴァイツァーの名言です。過去の出来事を必要以上に引きずらない心の在り方が、幸福にとって大切だということは、ある意味真実だと思います。しかし、災害は忘れたころにまた襲いかかってくるのです。教訓を絶対に忘れてはなりません。南海トラフ巨大地震は、近いうちに必ずややってくるのです。