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青少年の自殺のサインを見逃すな
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2006年10月に施行された自殺対策基本法は、職場・学校・地域の体制づくりを呼び掛けています。その基本理念には、「自殺対策は自殺が個人的な問題としてのみ捉えられるべきものではなく、その背景に様々な社会的要因があることを踏まえ、社会的な取組として実施しなければならない。」とさだめられています。つまり、自殺は「社会的死」と捉えられるべきなのです。
しかし、日本全体の自殺者数は減っている中で、小中高校生の自殺は後を絶たず、令和4年には過去最多の514人、令和5年も513人と高止まりしています。その原因は家庭不和・父母の叱責・病気・厭世・精神障害・友人関係などです。そして、友人関係のなかには、いじめがふくまれています。大人社会にもいじめはありますが、学校で起こるいじめは、時にいじめられている人間を自殺にまで追い込んでしまいます。どうしてそこまでエスカレートしてしまうのでしょうか。
人間が集団を作ると、その中に集団の雰囲気や暗黙のルールが生まれます。それに合わせられない人間は、時として疎ましく思われることになります。ウマが合わない人とも上手く人間関係を築くのも知恵であり、大切なことかもしれませんが、なかなか適応できない人もいます。
そんな疎ましさから、それほどのつもりもなく言い放った言葉や軽い気持ちでやったことが、グループや集団になじめない後ろめたさを持った人間には大きな圧力となります。この集団的圧力を与える側、つまりいじめる側と、圧力を受ける側、つまりいじめられる側との意識の差こそ、自殺にまで至る大きな原因なのではないでしょうか。
それにブレーキがかからない集団には、そんな場面を傍観している者が多く、いじめられている者への共感や思いやりの弱さ、他愛性の低さといった特性が見受けられます。
なぜ日本の子どもの他愛性は低くなってしまったのでしょうか。それは日本の子どもたちの自己肯定感の低さと関係があるように思われます。自分を無価値な人間だと思っている子どもも、自分より弱く劣っているように見える者に対して、その存在価値をさらに低く見てしまうのです。そうして自分を無意識のうちに救済しているのです。
集団的圧力が増幅される環境、それが学校です。学校や教室は逃げ場のない空間であり、その学校をやめて違う学校にいけばいい、または、そんな学校には行かなくてもいいとは考えにくいのです。
密室ともいえる学校では、「危険から逃げる」「ウマが合わない人は避ける」といった回避行動をとることが難しい。しかも、真面目な子どもほど、親に心配をかけたくない、自分がいじめられていることを知られ、周りに迷惑をかけたくないと思うのです。
児童生徒が、いじめを受けるようになり、自殺するに至るまでのプロセスをたどると、次のような発展段階があるといえます。
第1段階は、特定化の段階です。いじめっ子たちが、特定のターゲットを決めると、それ以外の者は、無関係でありたがるように仕向ける段階です。特定のターゲットには、いじめられるにふさわしい特別の何かがあると言いふらすのです。それはある意味何でもいいのです。「嘘をついた」「約束をやぶった」「男のくせに女とばかり話す」「親や家の自慢ばかりする」と悪宣伝を流布するのです。
第2段階は、対象の明確化です。気に食わないのは、お前(あいつ)だよとみんなの前で攻撃されるのです。この段階で、他の誰も助けたり、教師に告げ口したりしなければ、繰り返されます。ターゲットにされなかった者はほっとします。
第3段階は、孤立化です。ターゲットにされなかった者たちは、関わりたくないため、しだいにその子を避けるようになります。避けない者には、「お前もターゲットになりたいのか」と言わんばかりの圧力がかかります。孤立化の徴候が見えても、教師がそれを見逃したり、「あの子は友達が少なくても仕方ない」と容認するような態度をみせると、いじめっ子は100万の味方を得たように思うでしょう。
いじめられている子は、次第に「自分はいじめられてもしかたない」という気持ちになり、他ならないこの自分がいじめられることに、自分なりに説明をつけようと必死に考えるようになります。こうなると、親や教師に相談して、迷惑をかけたくないという気持ちになります。
第4段階は、無力化です。味方もいない、逃げ場もない、相談することもできないとなれば、隷従するしかありません。そうなると、暴力や、パワハラ、セクハラといった人格にダメージを与えるような危害が加えられることがしばしばです。
この段階では、もはや周りが気づき、助けてあげる以外に方法はないのですが、それがなされない中で、いじめが集団化したり長期化して、エスカレートしていく中で、解決の見通しや希望を失い、この状態が続くのなら、生きていても仕方ないという心理状態になり、加害者との隷属的な関係が永遠に続くように感じられるのです。精神的な感覚は鈍り、何も冷静に考えられなくなります。このような状況では、何かをきっかけとして、自殺を選択するしかないという心理状態に追い込まれるのです。
自己決定権の中に、自殺は入りません。それは、個人の自由な意志によるものではなく、追い込まれた結果だからです。自殺は人間関係などに悩んだ「社会的死」である以上、社会的な関わりによって防ぐべき問題です。
キリスト教やイスラム教は、自殺を厳しく禁じていて、自殺者は葬儀を行わず、墓さえも設置できないなど社会的制裁が加えられてきました。また、アメリカのミシガン州では、「自殺未遂」を犯罪とみなすことで、自殺を抑止しています。
しかし、日本では「自殺の教唆や幇助」、つまり、自殺をそそのかしたり、自殺の手助けをすることが違法であるにもかかわらず、自殺そのものは、違法ではないとされています。有罪にされる本人がいないため、その責任を問えないからです。
このような自殺者の責任を問うという考え方は、一つの抑止にはなり得ますが、それだけで自殺を防ぐことはできません。
「社会的死」といえる青少年の自殺は、周りの人間に対して、追い込まれた子どもへの関わり方を問題提起しています。思春期の自殺者が、遺書を書き残すことがあります。自殺に至った経緯やその理由を書き、自殺という行為を詫びる一方で、自分を死に追い込んだ人間を直接的・間接的に非難します。遺書が復讐あるいは脅しの意味合いを持つこともあります。
青少年の自殺には、こうした他人への攻撃と自己主張、自殺を美化する言葉が連ねられ、助かる可能性のある方法を選ぶ場合が少なくないといいます。止むを得ず死を選ぶ青少年の自殺は防ぐことができるのです。
私たちは、その悲痛な叫びに真剣に向き合わなければなりません。それが自殺の兆しやサインを見過ごしてしまった周りの人間の責務です。いわゆる自殺の危険因子を親も教師も把握し、それを複数満たしている子どもを早期に発見し、例えば、テレビを見なくなる、口数や食欲が減る、好きなことをしなくなる、大切なものを人にあげるなどのサインを見逃さないことが肝要です。教室で複数の加害生徒に囲まれていても、無反応な状況は、無力化の状況です。
同時にいじめや自殺防止の消極的対策だけでなく、教育学や教育心理学などの知見を得て、仲間づくりや相互コミュニケーションを促進する学習法の研究など、より積極的対策の両面から取り組むべきです。
「A stitch in time saves nine.」(時を得た一針は九針を省く。)綻びは、小さなうちにすぐ繕えば、さほど手間もかけずにすみますが、放置しておくと、どんどん大きくなり、手に負えないものになってしまいます。何事も問題が小さなうちに早めに対策を講ずるべきです。そのためには、心配な子どもの観察と情報収集を子ども・親・教師の三位一体で行うことです。
例えば、「学校でいじめはないの?」という問いに対して、子どもが「ないんじゃない?」と疑問形で答えた場合は、ある可能性が高いですし、「近頃、何か困っている感じをうけるけど?」と声をかけても、本人が否定する時は、寧ろその悩みが深刻であることを物語っていることもあるのです。子どもの心のひだに分け入り、子どもの本音を引き出す手立てをみんなで考えていかなければなりません。