「ハイリゲンシュタットの遺書」を読み解く➂
~甦った大作曲家ベートーヴェン~ シリーズ➊~➍
➌甦った大作曲家
「遺書」を認(したた)めたベートーヴェンは、この後すぐに分厚いスケッチ帳を抱えてウィーンに戻り、これまでにない充実した筆致で次々と傑作を完成させてゆくのです。
自殺をほのめかす程追い込まれたベートーヴェンが、死の淵から生還し、芸術家としての使命に目覚め、過酷な運命に挑み、演奏家としてではなく作曲家として復活しようという「遺書」の劇的な内容は、翌1803年から1804年にかけて完成される『英雄交響曲』の文学的原型とさえ言われており、さらには後の『運命交響曲』『 第九交響曲』等に現れる「闘争から勝利へ」というベートーヴェン独自の劇的構図も、この危機の克服と無関係ではないのです。
難聴の症状の進行に関して、ベートーヴェン自身が指揮した『第七交響曲』の指揮について、当時のヴァイオリニストで指揮者のルイ・シュポーアは次のように記しています。「聾者になった不運な楽聖が自分の演奏する弱音をすでに聴くことが出来なくなっていた事実は、誰しも明瞭に察するところであった。殊にそれは、第1楽章のある個所で明らかにされた。即ちふたつの延長記号(ハルト)が連続的に続くところがあって、その2番目のはピアニシモで奏(ひ)くところがある。ベートーヴェンは恐らくこれを見落としたのであろう。オーケストラはまだこの2番目の延長記号のところまで来ていないのに、彼は再びタクトを取り始めるのである。それでオーケストラはピアニシモをやっと奏し始めた時、それを知らぬ彼は10小節か12小節先を振っているのであった」 (属啓成氏著『ベートー ヴェンの生涯』より引用、字句一部変更)。
ベートーヴェンは『第七交響曲』の演奏会の10年余り後に、これと同じような厳粛で不審な挙動を『交響曲第九番《合唱付き》』の初演の際に演じてしまいます。すなわち、その演奏会は総指揮を受け持つベートーヴェンのほかに楽長のウムラウフを事実上の指揮者として行われ、全く耳のきこえない楽聖は終演後の嵐のような喝采にも気付かず、聴衆に背を向けたまま茫然と腰掛けていたという話はみなさんもよくご存じでしょう。
さらに加えて、当時のウィーンはナポレオンのフランス軍のために蹂躙され、地下室に難を避けたベートーヴェンが轟く砲弾に耳を押さえながら・・・・「不安で野蛮な生活、周囲にあるのは軍鼓と大砲と人間とあらゆる種類の不幸ばかり」という痛ましい言葉を発した苦難の歳月でもありました。
この頃、ベートーヴェンの作曲は減ってしまいますが、同時に彼の精神的視野は深く内面に向けられて、音楽の純粋性をより強く希求し、そのなかにかつて彼が求め得なかった新鮮な喜びと明朗な活力を見いだすことが出来たのです。
「遺書」から25年余り生き続け、56歳でこの世を去るまでの間、彼は、自らの運命に抗(あらが)い続け、次々と名曲を生み出していきました。
ベートーヴェンのこれら後期作品群の楽曲は、長大かつ内面的で難解な作風となっていますが、そのため演奏家たちは準備に時間を要し、演奏頻度も多くはありませんでしたから、広く聴衆の理解を得るには時間がかかり、すぐには正当な評価を得るのは難しかったといえます。
彼の耳がほとんど聞こえなくなっていたということは、自らの作品を実際に自分の耳で確かめることができなかったわけであり、ベートーヴェン自身が自分で演奏をすることもなくなったということを意味しています。
つまり、それによって、演奏のための技術的な配慮は希薄になり、作曲そのものに対する想いがより大きくなっていったと思われます。このことから、ベートーヴェンの後期作品群の音楽は、初期、中期と比較すると、さらに内面的に深く掘り下げられ、高い芸術性を持つようになったといえるのです。
『 第九交響曲』が完成し、初演が行われたのは1824年。「歓喜の歌」の原詩であるシラーの「歓喜に寄す」は、シラーと彼の友人ケルナーとの交流の中で生まれました。 歓喜の力と徳をたたえ、それは人間を高貴たらしめることをうたっています。
ベートーヴェンは、この「歓喜に寄す」に感動し、22歳のころには、詩に曲をつけようとしていますが、詩とメロディーが結びつき、実際に交響曲が完成するまでには、30年余の歳月を要したのです。