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裁き(判断)を下す上で見失ってはならないこと
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イギリスの劇作家シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に有名な裁判の場面があります。
ヴェニスの若者バサーニオは、ベルモントにいる富豪の娘ポーシャに求愛するための資金援助を親友の商人アントニオに頼みます。あいにく全財産をあちこちの船に乗せて投資中だったアントニオは、高利貸しのシャイロックから資金を借りることにしました。ユダヤ人であるがゆえにアントニオからさまざまな侮辱を受けてきたシャイロックは、復讐する絶好のチャンスと考え、期限までに返済できないときはアントニオの身体から肉1ポンド(約450グラム)を切り取るという条件なら無利子で貸すと約束し、アントニオもこれを承諾し、証文に署名しました。
一方、ヴェニスではアントニオの船が一艘のこらず難破したとの噂が流れ、金を回収できないと思ったシャイロックがアントニオの肉を求めて裁判を起こしました。
娘ポーシャは男装し、法学博士バルサザーに扮して法廷に現れ、裁判が開かれます。裁判官は、証文は有効であり、「法律によって肉1ポンドは原告シャイロックのものであるから切り取ってよい。」と命じます。勝ち誇ったシャイロックがアントニオにナイフを突き立てようとしたとき、裁判官は、「待て!きっかり1ポンドを切り取れ。これ以上切り取ることも、これより少なく切り取ることも、1滴の血も流すことも許さぬ」とシャイロックに宣告します。形勢は逆転し、シャイロックは殺人未遂の罪に問われ、財産半分を娘夫婦に譲ったうえ、キリスト教に改宗するよう命じられるのでした。
変装した娘が裁判官という裁判の正当性に疑問がある点は、さておくとして、「血を1滴も流すな」という判断は、今日では、人肉を契約の担保にすることは、「公序良俗に違反するものであり、契約そのものが無効である」としてシャイロックの請求を棄却すべきところですが、シェイクスピアの生きた時代に「公序良俗」や「罪刑法定主義」、あるいは「遡及処罰の禁止」といった法理はありませんでしたから、契約書の細部までとことん吟味し、そこに明示されていることは認めるが、明示されていないことは決して認めないという点にしか、知恵を発揮する余地はありませんでした。
ここでは、法律の条文解釈は細かい文言まで厳密になされるべきことを学ぶとともに、裁判官や弁護士などの法曹家は、単なる結果の勝敗にとどまらず、社会的・道徳的に公正であること、当事者間の和解や平和を目指すべきことが求められているのです。
ここでは、法律や契約が復讐の道具として使われようとしますが、法曹家はそうした悪用を防ぐ倫理的責任を負うということです。たとえ正当な手段を用いても、結果が人道に反する場合、その行為は正当化されないことを肝に銘じるべきです。そのためポーシャのように、法律を新たな観点から解釈する革新的で論理的な能力や説得力は、法曹家にとって重要な資質といえるでしょう。
法が実現すべき正義の一つに、権利の侵害や不正を正すことがあります。法を犯せば処罰されるのは当然ですが、処罰が恣意的なものであれば、それ自体不正義となります。裁判官は、法律に精通すべきことは、もちろんですが、徳が高く、知恵の持ち主でなければなりません。
「朕は国家なり」という言葉に象徴されるような絶対主義の時代以前には、権力者による恣意的な処罰が横行していました。そうした不条理に対して、構築された原理が「罪刑法定主義」です。どのような犯罪に対して、どのような刑罰を与えるかは前もって決められておくべきものとされるようになりました。法はすべての人に平等に適用されなければなりません。特定の個人や集団を不当に優遇・排除してはならないのは当然ですが、その上で法の適用が血の通ったものになるために、裁きを下す立場にある王や裁判官のような権力者は、人間であるというだけで持ちうる権利(基本的人権)、就中、生命の尊重という観点を見失ってはならないのです。
古代中国・前漢の劉向(りゅうきゅう)(紀元前77年~紀元前6年)が撰した『説苑(ぜいえん)』の「圉人(ぎょじん)之罪」に権力者に加担するふりをして、実は権力者の横暴を諫めた知恵ある賢者の逸話があります。
斉(せい)の景公(けいこう)は鳥の狩猟が好きで、捕らえた鳥は燭雛(しょくすう)という者に世話をさせていた。ところが、この燭雛が鳥を逃がしてしまった。怒った景公は燭雛を処刑しようとした。そのとき宰相の晏子(あんし)が「燭雛に自分がどんな罪で罰せられるか、はっきり告げてから処刑されてはいかがでしょう」といった。景公が承知したので、晏子は燭雛を景公の御前に曳き出して、こう宣告した。
「お前には三つの罪がある。わが君が大事にしていた鳥を逃がした。これが第一の罪。つぎに、わが君に鳥ごときものが原因で人を殺すようなことをさせた罪。第三は、わが君は、家臣の命を軽んじ、鳥のほうを大事にするという評判が諸国に聞こえる結果を招くであろう罪である。」
その上で燭雛の処刑を申し出たところ、景公は自分の誤りに気づき、「殺すには及ばぬ」といって許したという。
宰相の晏子は、漢を興した劉邦の異母弟の家系につながる名門であり、この戒めの在り方は見事というほかありません。トップにある者の陥りがちな専横と自分勝手な考えを客観的に考えられる表現にして斉王に再考を促したのです。
晏子の優れた点の第一は、斉王に直接進言せず、「燭雛に自分がどんな罪で罰せられるか、はっきり告げてから処刑されてはいかがでしょう」と燭雛に向かって宣言するというスタイルを取りながら、実は斉王に気づかせようとしたことです。誰しも自分の行いの非を面と向かって責められれば、素直に聞き入れられず、反発してしまう可能性があります。そうなれば、君主の怒りを買い自分も処罰される憂き目に遭うかもしれません。
第二に、鳥を逃がしてしまった罪と人の命の重みとを天秤にかけ客観視させる問いかけにしたことです。いかに大切にしていた鳥とはいえ、落ち着いて考えれば、人の命を上回るような価値があるかどうかわかるはずです。
第三に、「家臣の命を軽んじ、鳥のほうを大事にするという評判が諸国に聞こえる」というように、些細なことで大事な家臣の命を奪うような悪い君主という評判が広まることを予想させたことです。そのことで諸国の王や民衆の評判が著しく低下するようであれば、そのダメージの方が大きいことは容易に想像できるはずです。
つまり、自分がやろうとしていることが、どのような結果をもたらすかという「メタ認知」を促し、その影響に気づかせた点が優れています。
メタ認知とは、自分が感じたり、考えたり、判断したりする認知活動を客観的にとらえ、コントロールする能力を指します。メタ認知を高めるには、セルフモニタリングとコントロールを繰り返すことが大切です。セルフモニタリングとは、自分の行動や考え方を客観的に観察し、課題や欠点を見つけ出すことです。コントロールとは、その課題や欠点を改善するために、もっと良い方法はないかと前向きに考えることです。メタ認知を促すために、他人に対していら立ちを感じたときに、「自分は何に対して怒っているんだろう?」と一呼吸置くことが裁き(判断)を下す上で大切なことなのです。