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すべてを得ようとするとすべてを失う

▲人にはどれだけのとちがいるか

   ロシアの文豪・トルストイの短編に『人にはどれほどの土地が必要か』という作品があります。それは、パホームという主人公がパシキール人に贈り物やお茶を分け与えたお礼に、彼らの土地を安価で分けてもらうという話です。そのお礼の土地とは、一日で歩いてもどって来られる範囲なら、いくらでも同じ値段で売るが、万一、元の場所までもどれなかった時は、土地は売らないというものでした。

 日没までに、パシキ―ル人の村長が目印に置いた帽子のところにもどってこなければなりません。日の昇る方へ歩き出したパホームは、際限なき欲望に駆られ、必要以上の土地財産を手にいれようとして、倒れそうになりながら、日没までギリギリ歩き回り、間一髪で日が沈むという時、前のめりに倒れながらも、目印の帽子をつかみ土地を手に入れたのでした。 
   しかし、倒れ込んだパホームを彼の下男が抱き起こそうとしたその時、パホームの口からはたらたらと血が流れていたのです。彼は、帽子をキャッチしたその瞬間に不運にも死んでしまったのです。

 下男は鍬を使って、パホームが横たわれるだけの長さの墓を掘り、そこにパホームを埋めました。頭から足先まで、パホームが必要とした土地は、皮肉にもたったの2メートルだけでした。

   堅実な妻と地道な努力で、少しずつ土地を増やしてきたパホームが、簡単に広大な土地を手に入れた旅人の話の虜になってしまったための憐れな結末でした。人間の欲望の限りなさというものを土地への限りない欲望という形で見事に描きだした作品です。物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさを重視する「知足」の精神がパホームにあれば、多くの土地を手にいれることで生まれる苦労を予測することができたでしょう。

▲水面に映った犬に吠えかかる欲張りな犬

 こんな話があります。ある時一匹の犬がうまそうな一切れの肉を持って、肉屋の方から駆けてきました。どうやら盗んできたもののようです。犬というのは、自分の家で食べるのが好きなようで、くわえたまま家の方まで駆けていきました。家に帰る途中、渡らなければならない小川がありました。犬は橋の方へ歩いていきました。水面は静かで澄んでいたので、覗こうと立ち止まりました。するとそこには、もう一匹の犬がもっと大きな肉をくわえて、こちらを見ていたのです。犬は自分の肉よりも大きなその肉をどうしても欲しいと思い、その犬に大きな声で吠えかかりました。その瞬間、肉は小川に落ち、流されてしまったのです。犬はみじめにお腹をすかせて家に帰りました。 
   この有名なイソップ物語は最後にこうむすんでいます。「Grasp all lose all」「すべてをつかもうとすると、すべてを失う」欲張って全部を掴もうとすれば、結局、そのうちの一つも掴めないという惨めな結果になるであろうという教訓です。
   今ある利益や幸福に感謝することを忘れ、目先の利益に貪欲になり、あれも欲しいこれも欲しいと貪る人は、心とか、時間とか、モノよりもっと大事なものを失ってしまうのではないでしょうか。

   確かに挑戦することは重要ですが、「一度にたくさんやってみることが大切」ということではありません。「一意専心」という言葉が示すように、あれこれといろんなことに目を向けず、ただひとつのことに的を絞ることで、惨めな結果を防ぐことができるのです。人間は、人に会って話をしたり、耳寄りな情報に接すれば、簡単に誘惑に負けてしまうものです。パホームがいい例です。誘惑や目先の利益に心を奪われ、進むべき道を見失うことは、誰にでも起こり得ることです。絶対に実現したいことを一つに絞って、それを自分にできる限界までやってみることです。一つに絞ってやってみれば、必ず、次に何をなすべきかが見えてくるはずです。エジソンのように、究極の目標が定まっていれば、「トライ・アンド・エラー」をくり返しながら、偉業を成し遂げることができるのです。
   大作曲家モーツァルトは述べています。「多くのことをなす近道は、一度にひとつのことだけすることだ」と。
   詩人・真壁仁は、「峠」という詩の中で、次のように詠みました。
「ひとつをうしなうことなしに   別個の風景にはいってゆけない。   大きな喪失にたえてのみ   あたらしい世界がひらける。
峠にたつとき  すぎ来しみちはなつかしく ひらけくるみちはたのしい。
みちはこたえない。   みちはかぎりなくさそうばかりだ。
峠のうえの空はあこがれのようにあまい。
たとえ行手がきまっていても  ひとはそこで   ひとつの世界にわかれねばならなぬ。」
 真壁仁の詩は、「峠」が決断の瞬間を暗示しており、その峠を越えることは、新たな成長への始まりであり、過去を乗り越えて未来へと前進することを意味します。峠を越えることで得られるものは、自己の成長と新たな視野であり、そのプロセス自体が重要であるというメッセージが込められています。

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