見出し画像

「ハイリゲンシュタットの遺書」を読み解く」④

~甦った大作曲家ベートーヴェン~ シリーズ➊~➍

➍ベートーヴェンの「革新性」と革命への予感


▲メトロノームの形をしたウィーン中央墓地のベートーヴェンの墓碑

 
 ベートーヴェンの音楽は、ハイドンやモーツァルトとは違った音楽に対する「革新性」をもっています。特に「ハイリゲンシュタットの遺書」以後には、その「革新性」を際立たせています。 
 ソナタの楽曲構成の成立と変遷、ソナタ形式の成立と変遷、変奏曲の扱い方、フーガの技法の応用等といった作曲技法や楽曲様式の変遷とともに、ベートーヴェンが成し遂げた飛躍・改革は、知れば知るほど、圧倒される想いがします。

 「革新性」の第一は、演奏時間の長さです。モーツアルトやハイドンの交響曲の演奏時間は、概ね20分程度で、モーツアルトが死の直前に作曲した比較的長い三大交響曲においても、せいぜい30分程度です。しかし、ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」以後に作曲された『交響曲第3番≪英雄≫』の初演演奏は、『交響曲第1番』や『交響曲第2番』が20分程度だったのに比べ、何と1時間近くかかっています。聴衆は、その異次元の新境地を示した長大な交響曲にさぞ驚いたことでしょう。

 「革新性」の第二は、オーケストラの編制です。、ハイドンのオーケストラは25人程度の編制でしたが、ベートーヴェンのそれは100人編成に膨れ上がっています。楽器の数や役割分担、効果的な使い方、さらに軍楽隊や行進曲では使われても、交響曲では、ベートーヴェンが初めて使ったのが、シンバルや大太鼓、そして『第五交響曲』では、ピッコロ,トロンボーン、コントラファゴットがオーケストラに初めて登場します。『田園交響曲』第2楽章では、ナイチンゲール(サヨナキドリ)はフルートで、ウズラはオーボエで、カッコウはクラリネットで演奏されます。楽器によって、大自然や村人の声、鳥の鳴き声や突然の雷鳴、牧歌的な風景、音の強弱、音の広がり、厚み、深み、奥行きが格段に進化していきました。

 「革新性」の第三は、ピアノという楽器そのものの改良です。それまで鍵盤数は、当初54鍵しかありませんでしたが、18世紀後半には61鍵、1800年頃には68鍵になり、1820年頃には73鍵と増えています。ベートーヴェンの作品はまさにピアノの発展とともに変化しており、1782~1802年頃の初期は61鍵だったのが、1803年、ベートーヴェンが33歳頃から使用したというフランス製エラールのピアノは68鍵に増え、「ピアノソナタ第21番<ワルトシュタイン>」「ピアノソナタ第23番<熱情>」といった名作を作り出すきっかけとなっています。また1817年、かれが47歳頃から使ったというイギリス製ブロードウッドのピアノは73鍵とさらに増え、「ピアノソナタ第30番」、「ピアノソナタ第31番」、「ピアノソナタ第32番」といった後期のソナタが産み出されています。そしてベートーヴェン以後の1890年頃には、今日の白鍵が52、黒鍵が36の88鍵におさまっていますが、これは人間が聞き取りやすい音階の範囲だといわれています。
 
 そして何より、ベートーヴェンにとっては、音楽が単に「味わわせるもの」「心を癒すもの」「人々を楽しませるもの」ではなく、「生の根源的なもの」であったため、音楽全体に斬新なエネルギーが満ちているのです。例えば、貴族に献呈されたような交響曲は概ね食事など場の雰囲気を盛り上げたり、音楽を娯楽的に楽しむことを目的とした依頼が多かったので、『第三番≪英雄≫』の第二楽章に「葬送行進曲」を導入したのは、極めて革新的な出来事だったといえるでしょう。
 
 この新しさが、台頭しつつあったブルジョワジーなどの市民階級や一般大衆にも受け入れられ、認知されたのは、次第にうねりとなった民主主義的な新しい機運がその時代と合致していたからなのです。
 
 しかし、当時の政治情勢は、精神の自由を希求するベートーヴェンにとって過酷なものでした。ナポレオン戦争によって、フランスに敗れたドイツは、当時一つの民族国家ではなく、プロイセンやバイエルンなどの多くの領邦に分かれていました。いち早くフランス革命とナポレオンの登場によって国民国家建設を進めたフランスに敗れたことから、ドイツにおいても国民国家の形成を促し、そのために、いまだ存在しなかったドイツ人としての民族的自覚を植え付けるための教育から着手しようと呼びかけたのが、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』という有名な民族ナショナリズムを鼓舞した演説です。

 この戦争で義勇軍として戦った学生たちにとって、ナショナリズムと自由主義を否定するウィーン体制は納得のいかないものでした。ウィーン体制によって成立したドイツ連邦は諸邦の連合体であり、ドイツ民族の統一からはかけ離れたものでした。各国はそれぞれ国王政府と議会を持ち、それぞれ異なる政策を掲げたので、まとまりは弱かったのです。
 
 こうしたことから、イェーナ大学やギーセン大学の学生などを中心に学生同盟が結成され、ドイツの自由主義的改革やドイツの統一を主張するブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)の運動が本格化しました。1817年10月には宗教改革300年祭とライプツィヒの戦勝記念祭にブルシェンシャフトが蜂起し、一部の急進派の学生により反動的書物や法規が焚書されたことは各国政府を驚愕させたのです。。
 1819年3月過激派の一学生が、当時ロシアのスパイと目されて学生の憎悪の的となっていた劇作家コッツェブーを暗殺する事件が起き、それを口実にオーストリアの宰相メッテルニヒは本格的な弾圧を決意します。
 メッテルニヒは、各国の権力を握る貴族、大地主層の地位と利益を守るため1819年に保養地で有名なカールスバートに連邦の主要国による大臣会議を招集し、9月20日にドイツ連邦議会で「カールスバートの決議」を行い、すべての学生団体の禁止、大学への監督官の常駐、出版物の検閲などの言論統制と大学への監視強化を要請しました。これによって、ドイツのブルシェンシャフト運動は厳しく弾圧されることとなり、衰退を余儀なくされたのです。
 
 当時のウィーンでは、いたるところで官憲の眼が光り、厳しい言論統制と書物の検閲が強化されていました。芸術作品も例外ではなく、その最初の犠牲者となったのは、シューベルトです。自由主義的な思想をもっていたシューベルトは官憲によって捉えられました。ただし嫌疑不十分で釈放されましたが、彼のオペラ「謀反人たち」は検閲によって「家庭戦争」に改題させられ、オペラ「グライヒェン伯爵」やオラトリオ「ラザロ」はそのテキストが検閲で不許可とされて、これらは未完成に終わってしまいます。
 
 ウィーンの町には数多くの密告者が放たれ、王侯貴族による支配に反対する「共和主義者」として知られていたベートーヴェンもまたこの密告者に付け狙われていました。
 ベートーヴェンの『交響曲第九番≪合唱付き≫』の初演が鳴り響いた1824年5月7日、 ウィーンのケルンテン門劇場では、「ミサ・ソレムニス」 が抜粋の形でウィーンにて初演されました。「ミサ・ソレムニス」はベートーヴェンの弟子にしてパトロンのルドルフ大公がオルミュッツの大司教に就任したことのお祝いに作曲されましたが、就任式までに完成できず、作品は1824年にサンクトペテルブルクで初演されています。非常に規模の大きな作品で、彼の合唱音楽の頂点を極めていると言っても過言ではありませんでした。しかし、この初演の1ヵ月後にウィーンで再演されたときには、この作品は「キリエ」、「クレド」、「アニュラディ」のみが、しかもミサ曲ではなく 「大讃歌」というタイトルで演奏されました。なぜかといえば、ミサ曲を劇場で演奏することに当局が難色を示したからに他なりません。このとき教会筋が上演に反対したことを受けて、検閲官は演奏を一旦却下しています。すぐにベートーヴェンは嘆願書を提出し、上記の作品の名称変更と3つの楽章のみにすることでやっと承認にこぎつけたのです。

 ベートーヴェンは『交響曲第九番≪合唱付き≫』で、自由を高らかに歌い上げていますが、 このとき自由とは、さまざまな言論統制を敷いたメッテルニヒ体制からの自由の意味も込められていたに違いありません。
 
 ベートーヴェンの「生の本源的な欲求」とは、自己の悲劇的な運命に対する抵抗であり、キリスト教的な神に対する抗議でもあるのです。その思いをストレートに表現すれば、確実に検閲に引っかかり、禁止令が出ただけではなく、権力によってと捕らわれてしまったに違いありません。したがって、これらの彼の思いは、表面上わからない表現になっていると思われるのであり、それを読み解くことができなければ、ベートーヴェンの真の偉大さもわかりません。単にキリスト教的な神が定めた運命ならば、これほど残酷なものはなかったでしょう。つまり、キリスト教的な意味での神への賛辞などでは決してないのです。
 
 しかし彼は無音の世界に閉じ込められたからこそ、周囲の雑音は一切聴こえなくなり、自己の内面とだけ対話するしかなかったのです。シラーの詩を引用しながら、そこに込められた思いは、もちろんベートーヴェンの思いであり、そこには、ベートーヴェン的な願いが込められているに違いありません。
 他人の声にふりまわされず、悪い調子を避け、自己の内なる声に従えば自分の中で至福を見出すことができ、さらに他者を助けることから生じる幸福は「聖なる幸福」となるのです。
 
 ベートーヴェンの『交響曲第九番』第4楽章の「歓喜の歌」は、シラーの詩にもとづいていますが、この「歓喜の歌」のテキストは、元々1785年にドレスデンのフリーメーソンの集会の歌唱のために作られた頌歌(褒め称える歌)でした。このフリーメーソンは「自由、平等、友愛、寛容、人道」の5つを信条として組織された団体で、ローマ教皇からたびたび反教会的であるとして非難されますが、とくに18世紀後半以降、王侯貴族までもフリーメーソンに入会し、この思想がヨーロッパだけではなく、新大陸のアメリカにも広まっていきました。
 
 1785年の元歌の歌詞は独唱者と合唱が対になった構成で、「乞食は王侯の兄弟となる」と歌い、最後は「暴君の鎖を解き放ち・・・絞首台より生還。・・・兄妹よ、死刑宣告官の声も妙に響く」と締めくくられ、身分制度そのものを否定するだけではなく、その後のフランス革命を暗示するようなきわめて激しい内容でした。
 
 しかし、シラーはその後、穏やかな内容にこの歌詞を改訂しています。ベートーヴェンが用いたのはこの改訂された歌詞ですが、その詩をそのまま引用するだけではなく選択して用い、順序も入れ替えています。行間に、「私見」を交えながら、読んでみましょう。
 
 冒頭に、「おお、友よ、このような響きではない! もっと心地よい歌を、もっと歓びにあふれた歌を、歌おうではないか。」とベートーヴェン自ら加筆し、バリトンの語るように歌われるレシタティーヴォでこの歌を始めます。現状否定です。ナポレオン戦争で多くの若者が亡くなりました。すべての友(人々)に向かって、かけがえのない大切なものに向かって語り始めるのです。

 この否定的な状態から抜け出そう!そうだ「歓喜 麗しき神々の火の粉よ」と唯一神ではない複数形であることを見逃してはなりません。「エリジウムからの天使よ。」エリジウムはギリシャ神話に示された楽園であり、そこに入っていくのです。
 
 「あなたの不思議な力が、わたしたちを再び結びつける、生き方が違ってしまっている、 わたしたちを。全ての人々は、兄弟となる、あなたの、優しく大きな羽の下で。」打ち続く戦争や様々な差別、分断された社会が一つになり、すべての人々は兄弟となると願っています。
「大いなる幸せに恵まれた人たち、それは、友と友の繋がりを得た人たち、また、優しいひとを伴侶にした人たち、ともに喜びの声をあげようではないか!」
「そう、この地球上で、たったひとつの魂にしか、巡り会えなかった人も、喜びの声をあげよう! そして、それが出来ない人は、この歓びの集まりから、しずかに涙して去ること!」
「それが出来ない人」すなわち、そうしようとしない人は、立ち去りなさい。実行もせずに「人間共和」の社会を建設することはできないのです。
 
 「すべての生き物は、大自然の乳房から、歓びを飲み味わう。すべての良き人も、また悪しき人でさえも 歓びというバラの香る跡をたどるのだ。」人類は大自然の恵みに育てられる。太陽の光は善人・悪人の分け隔てなどせず、すべての人間に平等に与えられる。
「歓びは、口づけと葡萄酒を、わたしたちに与え、死という試練を受けた友をも、与えてくれた。快楽は、虫けらのような人にも与えられ、そして、大天使ケルビムは、神の前に立っている。」幸福も生活の恵みも死を考えたものにも与えられ、単なる快楽なら虫けらにも与えられるが、ケルビムは神の前にしかいない。
 
 「神の、 美しく偉大な意図に沿って、太陽は天空を巡る、そのように、兄弟たちよ、喜び勇んで君たちの道を進め 歓びに満ち、英雄が勝利に向かって進むように! 」
 太陽はあらゆる大自然を育てるが、人類は人間としての道を歩み抜け。
「抱きあおう、幾百万もの人々よ! この口づけを、世界中に! 兄弟よ、あの星空の、その上に、愛すべき、父なる神が住んでいるに違いないのだ。」友愛の精神を世界に広げよ。
 「あなたがたは、跪 (ひざまづ)いていますか、幾百万の人々よ? あなたがたは、創造主に気づいていますか、世界中の人々よ? あの星空の、その上に、神を求めよう! あの星空の、その上に 神は住んでいるに違いない。」創造主とは、天空のどこか遠くにいるのではなく、高貴な精神によって育まれ現れることに気づいていますか。
 
 『第九交響曲』の初演は、大反響を呼び、演奏が終わっても、何度もアンコールに呼び出され、ついには警察官が「静粛に。静粛に。」と叫ばざるを得ない程でした。皇帝への喝采さえ3回が慣例となっていた当時、ベートーヴェンは4回ものアンコールを受けたのです。
 彼は、貴族よりも芸術家のほうが尊敬されるべきだとゲーテに語ったといいますが、まさにそれが実現された瞬間でした。
 しかし、2回目からの公演は、その熱が冷めたように不人気だったといわれています。何故か。裏付けとなる資料や根拠のない単なる「私見」ですが、ベートーヴェンの演奏会が、官憲によって、密かに監視されているからこそ恐怖を覚えた聴衆が演奏会へ足を運ぶのを敬遠したのではないかと思われてならないのです。

 「共和主義者」のベートーヴェンは身分制度に敏感でしたが、シラーの歌詞からの引用では、「生き方が違ってしまっている、 わたしたちを」すなわち、身分制度によって分断されていた民衆が「あなたの不思議な力が、わたしたちを再び結び合わせる」といい、「すべての人が兄弟となる」との「共和精神」を表明しています。
 「あなたの」とは、キリスト教的な神に限定されない神です。なぜなら「エリジオン」とはギリシャの神々が住む地であり、「ケルビム」は旧約聖書に登場する4つの翼と顔を持つ智天使だからです。キリスト教の用語を使えば、この曲を教会権力が都合のいいように利用するからです。 
 
 差し込む神々の光は時代の闇を突き抜ける「歓喜」そのものであり、「人類の交響曲」ともいうべき『第九交響曲』の「歓喜の歌」は、ベルリンの壁が崩壊した1989年のクリスマス、レナード・バースタインの指揮する東西統一を祝う6国合同演奏会で、東西ドイツから集められた楽団員も一緒になり演奏され、また今日でもEU(ヨーロッパ連合)の賛歌(国歌と同等)として多くの人々が結集する場で歌われ続けてきたのです。
 
 1827年3月26日、肝硬変により、56歳の楽聖ベートーヴェンがこの世を去り、『交響曲大十番』は未完に終わりました。翌年11月にはシューベルトも亡くなります。
 そして、1830年にフランスで起こった七月革命は、ウィーン体制下の反動的権力に抑えられていたヨーロッパ各地の自由主義運動、ナショナリズム運動に大きな影響を与えることとなるのです。

▲ベートーヴェンのデスマスク

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?