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感染症パンデミックの社会的影響

▲ペスト医師がかぶった鳥のくちばし型マスク

 1347年から1350年に大流行し、3000万人を死に至らしめたペストは、この期間だけでヨーロッパ人口の3分の1の命を奪ったといわれています。中央アジアの風土病に過ぎなかったペストが、なぜヨーロッパに瞬く間に広まり、14世紀全世界で1憶人もの人が死亡したのでしょうか。そして、ペストが与えた社会的影響はどのようなものだったのでしょうか。

 ペストは、ネズミなどに寄生するペスト菌という細菌がノミを介して人にうつり、さらに人から人へと飛沫感染するとされ、発熱、嘔吐、下痢が続き、腺ペストの場合、鼠径部や脇の下の悪臭、リンパ腺の肥大が起きます。重度の肺炎を起こす肺ペストとなれば、ほぼ100%に近い致死率の感染症です。敗血症ペストの場合では、次第に皮膚が内出血によって紫黒色の斑点が広がり、ほとんどの人が発症して数日で死に至るため「黒死病」(Black Death)と呼ばれ恐れられました。

 中央アジアの風土病だったペストが、ユーラシア大陸にまたがる広大なモンゴル帝国の遠征軍によって、ヨーロッパにもたらされます。当時、地中海に面したヨーロッパの主な港と通じていたクリミア半島のカッファは、海運で栄えた都市国家ジェノヴァ共和国の植民都市として賑わっていました。1346年、モンゴル軍がカッファを攻略しようとします。野戦を得意とする遊牧民のモンゴル軽騎兵に対し、籠城戦を決め込んだ港湾都市カッファは、援軍も物資の補給も自由に受けることができたため長期戦となります。

 しかし、大軍でカッファを包囲したモンゴル軍に思わぬ敵が襲いかかりました。モンゴル軍の兵士にペストが蔓延したのです。撤退を余儀なくされたモンゴル軍は怒りと悔しさのあまり、呪詛の言葉と共にある命令を下します。何と、ペストにより死亡した兵士の死体をカタパルト(投石機)で次々にカッファの街へと投げこんだのです。いわば生物兵器です。カッファでペストが広がると、海上交易路にあたるシチリア島のメッシーナ、ジェノヴァ、翌年にはフィレンツェ、シエナ、ミラノなどの内陸部の都市にも広がりました。

 ペストの原因や感染のメカニズムについて何の知識もなかった当時の人々は、不安にかられ狭い教会に集まり、ひたすら祈りを捧げ、他方では気晴らしに楽しい催し物のある場所で遊興に耽り、賭け事で気を紛らわすといった現実逃避に走りました。集団で集まったことが感染を拡大させたのです。
 ペストに怯(おび)える人々は、さらに誤った行動をとってしまいます。ペストから身を守るため、ペストが流行りだした街を逃れ移動し始めたのです。国王をはじめ、聖職者や医者までが逃げ出しました。フランスでは、港町マルセイユから、ボルドー、パリへ、ドイツではフランクフルトから内陸へ、さらには北欧へと、1349年までの僅かな期間にヨーロッパ全土へと広がっていったのです。


▲絵画『死の勝利』(ピーテル・ブリューゲル、1562年)には、社会に壊滅的な打撃を与えた疫病と戦争がヨーロッパ人の想像力に残した強烈な印象が描き出されている。(PHOTOGRAPH BY ORONOZ/ALBUM)

 ヨーロッパの多くの都市では、ペストは多数の人命を奪ったのみならず、法と秩序も破壊し、文明全体を壊滅の危機に追いやったといわれています。ルネサンスの作家ジョヴァンニ・ボッカッチョは、1348~53年に書いた有名な小説『デカメロン』で、繁栄を謳歌していたイタリアの都市フィレンツェがペストに襲われてどうなったかを、次のように描写しています。
「私たちの都市を襲った悲惨な大災厄の中で、法の権威は、人間の法であろうと神の法であろうと、ほとんどすべて消し去りました。それというのも、聖職者も、法を執行すべき方も、ほかの人間と同じく、死んでしまったり、病気になったり、さもなければ家族と一緒に閉じこもってしまったりしたので、どんな職務も実行されなくなったからです。もう誰もがやりたい放題でした。」
 ペストがヨーロッパ社会に与えた影響は深刻でした。人々の死生観は大きく二つに分かれました。一つは「メメント・モリ」といって、ラテン語で「死を忘れるな」「自分がいつか死ぬことを覚えておけ」という意味で、物質的な欲望や権力への執着を捨て、日々を大切に生きるべきだという考え方です。
 もう一つの生き方は、いつペストの犠牲になるかわからないし、神も決して助けてはくれないのならば、この生の一瞬一瞬を楽しく生きようという現実逃避的な考え方です。
 ペストというすさまじい疫病の流行は、人間に神と人の生き方の関係を再考させ、「ルネサンス」という大きな潮流を呼び起こす引き金となったのです。感染を恐れるあまり、家族も村人も分断され、絆は失われていきました。
 そんな中、人々の不安は頂点に達し、デマが飛び交います。当時既に文化的・宗教的マイノリティであったユダヤ人は、居住地を制限されていました。そして疫病が広まったのは、ユダヤ人が井戸に毒をまいたせいだというでっち上げに多くの人々は激怒し、黒死病のあと各地で起こったユダヤ人の虐殺は、史上最悪のユダヤ人迫害事件となりました。異教徒に対する偏見と差別意識を背景に、生活水準の高いユダヤ教徒に対する嫉妬から、ユダヤ人の財産没収や借金の帳消しが違法に行われ、焼き討ちや虐殺によって200以上のユダヤ人強制居住地が壊滅したといわれています。
 パンデミックや大規模災害のような非常に不安で恐怖に満ちた出来事が起こると、人間は決して一人ではなし得ない集団心理によって、異質なものを排除・攻撃し、心的エネルギーを解放し、心の平安を保とうとするのです。集団内の不平や憎悪を他にそらすための一種のスケープゴートです。

 中世封建社会は、経済面からも瓦解しました。死者の急増により、都市部の労働力は激減し、高い賃金を支払わなければ生産活動を維持できなくなるとともに、農村部では、領主に隷属していた農奴に賃金を支払うようになり封建制度が崩れ去りました。それにともない、窮状を打開できる人材ならば封建的身分秩序の枠を超えて活躍する機会が生まれたのです。
 同時にペストの脅威に対してなすすべを持たなかった教会の権威は失墜し、医学や保健学をはじめとするより科学的な思考が尊重され、神の手から人間を取り戻す動きは加速していきました。感染症との闘い方も次第に確立され、港には検疫所が設けられ、感染者の有無を確認してから上陸が許可されるようになり、万一、感染者がいた場合、完治するまで島などに隔離するための施設も造られました。

 14世紀のペストの流行というパンデミックの社会的影響をみると、感染することへの恐怖と不安、感染してしまったことへのセルフスティグマ(自分自身に対して否定的な偏見や差別的な考えを持ってしまうこと)、他人へ感染させてしまうのではないかという不安と自責、感染者を救えなかった悲嘆、感染者へのスティグマ(社会的に否定的な偏見やレッテルが貼られること)と迫害など精神的な影響は凄まじいものであったに違いありません。また感染の原因を「患者の視線による」と考える者も多く、患者を看護する際には、視線を合わせないことが鉄則とされるなど、今日では笑い話のような誤った認識も不安とともに拡大しました。死者の増大にともない、人々の心は荒廃し、信じられない程のモラルの低下を招きました。デマが飛び交い、スケープゴートを攻撃するなどの集団的狂気も起きてしまったのです。
 こうした迷信的な説が完全に否定されたのは、第3次ペスト・パンデミックの頃で、1894年に日本の北里柴三郎とフランスのアレクサンドル・イェルサンという2人の細菌学者が同時期にペスト菌を発見したことによって克服されました。
 
 現代のパンデミックにおいては、グローバル化がもたらす世界的な感染スピードの速さや情報社会による過剰情報の選別や管理など、14世紀とは異なる新たな対処のあり方が問われることになります。
 SNSなどを通じてフェイクニュースが一瞬にして拡大するような情報社会において最も重要なことは、どのような情報を信頼すればよいのかが国民に明確であることです。顔や肉声に触れることのない情報のやりとりには、コミュニケーションの重要な部分がそぎ落とされています。また、国民の利害は多様であり、政府による権力的な手法は、政治的な反対勢力の拡大に利用されると、分断が起こり、批判的な情報によって混乱が生じます。
 政府と国民の間に常日頃から信頼関係があり、行政の透明性が確保されていれば、政府の感染症対策に対する国民の協力も得られやすく、情報の一元化が図られ、国民への冷静なメッセージが行き届くでしょう。
 パンデミックの初期段階における不安と恐怖の中で、「インフォデミック」と呼ばれる誤情報による犠牲者が出たことに対する対策にも万全を期さなくてならないのです。

▲天才的なプログラマーとして知られ、
当時の台湾のIT政策を担当した
唐鳳(オードリー・タン)元デジタル発展部長(デジタル発展相)

 
 いち早く、スマートフォンを活用して感染経路を突き止め、感染者と接触した可能性のある人たち全員に警告メールを送った台湾は、政府と民衆との信頼関係があったことがあげられます。台湾政府は、COVID-19の初期段階で中央感染指揮センター(CECC)を設立し、感染症対策の指揮を一元化しました。このセンターは、厚生福利部と協力し、日々の報告や情報発信を行い、国民に最新情報を提供しました。強力なリーダーシップにより、迅速な政策決定と実施が可能になり、感染拡大を抑えることができました。2020年1月に感染の兆候が中国で見られた際、すぐに中国本土からの旅行者の入国を制限し、空港での検疫を強化しました。感染が広がる前に厳格な水際対策を実施したことで、ウイルスの国内流入を大幅に減らしました。また、民間企業にマスクの増産を要請し、工場には兵士を送り込んで、台湾人口約2,360万人に対し1日200万枚という増産体制を構築したのです。
 というのも、2003年のSARS流行のとき、台北市内の病院が2週間にわたり封鎖される医療崩壊を起こした経験から、台湾の病院は毎年、パンデミックに備える訓練を行ってきたのです。新型コロナウイルス対策の実施に当たって、台湾の公衆衛生当局やデジタル政策担当は民衆に対し、対策の成功には民衆の協力が欠かせないことを常に強調し続けました。過去の記憶は民衆レベルにもしっかり刻まれていて、だからこそ手洗いの徹底やソーシャルディスタンス(社会的距離)の確保、マスクの着用、食料品やトイレットペーパーのパニック買いの自粛といった要請を確実にかつ速やかに行動化することができたのです。また、台湾のメディアは政府と連携して適切な情報を提供し、誤情報の拡散を防ぐ努力も続けられました。
 台湾の感染症対策が優れている理由は、迅速な対応、強力な感染管理システム、徹底した情報共有と市民の協力が組み合わさっていることにあります。
 
 新型コロナ感染症によって、日本も社会のオンライン化が促進され、学び方や働き方にも大きな変革がもたらされました。一極集中の弊害が顕在化し、移動に要する経済的な無駄も認識されるようになりました。このパンデミックの経験を世界は共有し、ワクチン開発も総力を挙げて行い、ビッグデータやAIを駆使した人間の社会心理学的な分析と予測によって、人的被害も最小限に食い止めなければならないのです。

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