「面従腹背」を強いる組織は崩壊する
「面従腹背」の語源とされる語は、古代中国の歴史書「書経」にある「面従後言(めんじゅうこうげん)」とされています。「書経」には、中国の神話に登場する王の舜(しゅん)が、次の王となる禹(う)に、「汝面従して、退きて後言有ること無かれ」(表面で服従し、裏で陰口をいってはいけない)と伝えたという話があります。ここから、「面従後言」は「表向きは服従して、裏では陰口をたたく」という意味で使われるようになり、後に日本では、「面従腹背」といって、表面上は相手に従っているふりをしながら、内心では反抗心や不満を抱えていることを指すようになりました。
こうした「面従腹背」が強大な権力を背後に伴うと、誰もが逆らうことができなくなり、ますますその度合いは深まっていきます。その結果、カウンターバランスが働いて、裏切りやクーデターのような事件を誘発するのです。
歴史上、「面従腹背」の末に、組織を裏切ろうとした例に、ドイツの海軍大将で、国防軍情報部(アプヴェーア)の部長だったヴィルヘルム・F・カナリスがいます。カナリスは、ナチ党政権下におけるドイツの軍事諜報機関のトップとしてアドルフ・ヒトラーを補佐する一方で、ヒトラーの戦争も辞さない外交政策に対して疑念を持ち、ヒトラー暗殺計画を含めた反ナチス運動に関与していたことが発覚して処刑されたのです。まかり間違えば、ヒトラーは暗殺されていたのです。
また、旧ソ連は、強権的な体制のもとで、一般市民や下級の官僚たちは体制に従順であるふりをしていましたが、内心では不満を抱くような状況が長く続いたため、経済や社会全体にひずみが生じ、最終的には国家という組織自体が崩壊したのです。
わが国日本の例としては、武田親類衆の重鎮だった穴山梅雪の裏切りが挙げられます。梅雪は信玄からの信頼も厚く、主に諸大名との外交を任されていました。甲駿相三国同盟の成立のため梅雪は今川氏との交渉役として駿河江尻城代を任され、その領国は駿河と接する庵原郡を所領としていました。しかし、天正元年(1573)に信玄が亡くなると、情勢は一変しました。2年後の長篠合戦(1575)において、武田氏は織田・徳川連合軍に惨敗を喫したのです。
以後、梅雪は、勝頼やその側近衆としばしば意見が対立しました。勝頼は信玄の路線を引き継がず、無理な拡張政策を進め、長篠合戦で梅雪が懇意にしていた重臣の多くが戦死したこともあって、武田家中において孤立感を深めていきました。
勝頼は、表面的には家臣に従われていたものの、内心では不信と反発を抱かれ、最終的には織田・徳川連合軍の攻撃を受けると、家臣の離反が相次ぎ、武田家は滅亡の道をたどったのです。
これより少し前の天正6・7年(1578・79)にかけて、梅雪は江尻城に天守を築くなど、城の普請を行ないました。これは隣国の徳川家康を警戒したものと考えられますが、一方ですでに武田氏からの離反を考えていたという説もあります。ただし、梅雪が本当に武田氏を裏切ると明らかに認識されていたならば、勝頼は決して普請を許さなかったでしょうから、梅雪の挙動からは、あくまでも家康対策だと信じられていたわけです。
天正10年(1582)、織田信長が甲斐征伐を敢行した際の『多聞院日記』には、梅雪が信玄の婿であること、5000人を率いる大将だったこと、駿河の代官だったことを挙げていることから、信長の甲斐征伐の開始時点においては敵方からも梅雪が武田氏の重鎮と認識されていたに違いありません。
しかし、梅雪はかねて家康と和睦交渉をしており、締結すると駿河口からの侵攻を助けたのです。この甲州征伐において、木曽義昌らが信長に内通し、1万人の勝頼の本軍も逃亡が相次ぎ1千人となり、武田氏は一気に瓦解しました。本能寺の変の直後、京都で孤立した家康の伊賀越えを助けたのも梅雪です。おそらく梅雪は武田家中の動揺を見抜き、「面従腹背」を装い、勝頼を裏切ったのです。
トップダウンに慣れ親しんだ権威主義的なリーダーは、部下に従順さを強制し、意見や批判を許さない傾向があります。このようなリーダーシップのあり方では、メンバーは、自分の本心を隠し、表面的には従う姿勢を見せますが、内心ではリーダーに不満や反発を抱くことが多々あります。この「面従腹背」が常態化するとオープンなコミュニケーションは断絶し、正論がフィードバックされなくなり、リーダーに対する信頼感は失なわれます。メンバーはひたすら自己防衛に走り、責任逃れや過度の競争が蔓延し、ただ命令に従うことに汲々として、組織本来の創造性や活力が失われていきます。そして、次第にメンバー間での不満や不信感が増大し、内部分裂が生じやすくなり、表面的には同調していても、裏では派閥が形成され、組織の一体感が失われるのです。このような内部の対立が激化すると、組織は内部から崩壊していく可能性があるのです。
「面従腹背」という状況ではなくとも、個人の考えが組織においてほとんど反映されることなく、不一致を納得できないまま、ただ従うことだけが強制されるような状況が続くと、人は「認知的不協和」という状況に陥ってしまいます。「認知的不協和」は、個人が持つ信念や態度と、実際の行動が矛盾するときに生じる心理的なストレスを指します。「面従腹背」の状態では、表向きには従順であろうとする外的態度と、内面的な反発や不満といった内的態度との間に矛盾が生じているため、「認知的不協和」が生じていると考えられます。この不協和は、個人に不快感を引き起こし、それを解消するために行動や態度を変えようとします。こうした葛藤を乗り越えることができない場合、反抗的態度を示したり、組織から脱退してしまう事態が起こりやすくなるのです。
リーダーたるもの、要求の高さから、恫喝や暴言を吐く前に、一旦立ち止まって内省してみましょう。組織の方向性や目標と個人の価値観との間にギャップがある場合、魅力的なキャリアの機会が外部から提示されると、現状に満足していない人ほど裏切りやすいといえます。
明確なビジョンを伝えるためには、頻繁にコミュニケーションを取ることが大切です。メンバーが、自分の貢献がどのように成果に影響しているかをわかるようにすると、彼らの目的意識を高めることができます。
また、日常的にメンバーに声をかけて、リーダーのメッセージが明確に理解されたかを自ら評価しましょう。リーダーとして、メンバーの質問や承認の要請にきちんと応じられていたでしょうか。そのメンバーの知識、スキル、能力を適正に評価し、そのメンバーの長所と、成長が必要な領域をよく考えてあげましょう。明智光秀には、これが足りなかったのです。公平さを欠いた待遇や評価、理不尽な扱いを受けていると感じると、組織に対して不満が高まります。このような不満が限界に達すると、反発心や報復行動として裏切りにつながることがあります。
自律の機会を多く与えられたほうがうまくできる人もいれば、さらなるコミュニケーションやサポート、つながりが必要な人もいるのです。もしパフォーマンスが低下しているメンバーがいたら、直接、穏やかに、きめ細かく話を聞いて、何が起きているのかを探りましょう。家族の病気、離婚や死別、介護の負担増など、プライベートで何かがあったのかもしれないのですから。
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