人材を集め育てるには、「先ず隗より始めよ!」
紀元前3世紀中国の戦国時代、「戦国の七雄」と呼ばれた国々の中でも、斉(せい)の国は、他のどの国も逆らえない程の強国でした。斉は北隣の燕(えん)に国内で王位継承をめぐる内乱が起きたのに乗じて、燕を斉の国の属国としてしまいました。そこで燕の昭王(しょうおう)は人材を集め国力の充実を図ろうとします。
『戦国策』の「燕策(一)昭王」によると、戦国時代の燕の昭王(在位前311~前279年)は、小国の燕を強国にするためには、まずどのようにして優れた人材を集めたらよいかと賢者として知られていた学者政治家の郭隗(かくかい)を訪ねて質問しました。すると隗は「死馬の骨を買う」という故事を例に話し始めたのです。
昔、ある国の王が、千金で一日に千里を走るという駿馬(しゅんめ)を買い求めようとしました。何年経ってもなかなか手に入れられずにいたところ、雑役係の男が王に「私なら買ってくることができます」というので、買いに行かせたのです。男は程なく千里の馬を見つけましたが、その馬が既に死んでしまっていたので、その馬の骨を五百金で買って帰り、王に報告しました。王は激怒して「欲しいのは生きている馬だ。何で死んでいる馬に五百金もの大金を捨てるようなことをしたのだ!」といいました。すると、雑役係の男は、こう答えたのです。「死んだ馬でさえ五百金で買うのでございます。生きている馬ならなおさらのこと。世間では、王様ならば、馬を高値でお買い上げいただけるものと考えるに相違なく、駿馬はやがてやって参ることでございましょう」と。
すると、1年もたたないうちに、3頭の駿馬が王のもとに集まってきたというのです。
そして続けて郭隗は、「今、王、誠に士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ」といいました。すなわち、「王がほんとうに天下の優れた人物を招きたいなら、まずこの隗を手始めに採用してください。隗のような凡庸で失敗も多い人間を仕えさせたなら、さらなる隗より優れた人物も仕えるようになるでしょう」と答えたのです。昭王がその言葉に従って隗のために新しく邸宅を築いて、隗を先生として師事しました。すると、各地から有能な人材が我先にと争って集まってきたため、燕は強国となったのです。このことから、「先ず隗より始めよ」とは、必ずしも特別優れたことではなくとも、先ず自分自身や身近なところから行動を起こすべきだ、という意味の故事として、今日まで伝えられてきました。
こうして集まった有能な人材の中に、当時既に最も有名だった楽毅(がくき)がいました。いよいよ斉の国への復讐を挑むのですが、燕一国ではとても太刀打ちできません。そこで、楽毅の力により「対斉五カ国連合」を結成し、斉との決戦に臨みました。その結果連合軍が大勝し、連合が解散しても、楽毅率いる燕軍だけはさらに進軍し、斉の都臨淄(りんし)を陥落させ、70余城を落とし、残るは即墨(そくぼく)と莒(きょ)のわずか2城となったのです。昭王は楽毅を丁重に扱い、昌国君に封じてその功に報いました。
紀元前279年、あと一息と思われたそんな折に燕の昭王が死に、皇太子の恵王(けいおう)が即位しました。恵王は楽毅の事を皇太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た斉の知略の武将田単(でんたん)は「反間の計」、すなわち、燕にスパイを潜り込ませ、敵の間者に偽情報が流れるように工作して、敵の内部の親しい者同士を疑心暗鬼に陥らせるような情報を流し、仲間割れをさせるよう仕向けました。首都臨淄をはじめ斉の70余城がことごとく陥落する中で、即墨と莒だけが、わずかに斉の側に残っていたことから、田単は「即墨と莒は今すぐにでも落とすことが出来るのに、楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入るように仕向けたのです。恵王はこれをまんまと信じ、楽毅を解任し、代わりに騎劫(きごう)を将軍として送り込みました。
身の危険をさとった楽毅は趙(ちょう)に逃れます。しかし、楽毅の代わりの将軍・騎劫は田単に悉く大敗し、70余城悉く奪い返されてしまいました。恐れをなした燕の恵王は、自分が騙されて楽毅を殺そうとしたことを棚に上げ、「楽毅を休まそうとして将軍を一時交代させただけなのに、先代の王の恩義も忘れ燕を見限り趙に行くとは嘆かわしい。趙に行くだけではなく、もしや誤解して燕を攻めるつもりではあるまいな!そもそも誤解なのだから、燕に帰ってきてくれ!」後悔した恵王は、楽毅を呼び戻そうとしましたが、楽毅は「いにしえの君子は交わり絶つも悪声を出さず、忠臣は国を去るもその名を絜(きよ)くせず」(君子は友人と絶交しても悪口を言わず、忠臣は国を去っても自分の身の潔白を表明しない)、言い換えれば、先王の恩は忘れてないどころか、讒言に負けて罪を着せられてしまえば、そういうものを重用した先王の徳をも汚してしまうので、そうさせないために亡命したのです。それを口実に燕を攻めるなど考えてもいません。立派な人は友と交際を絶ったからといって悪口を言わないものであり、忠臣は国を去ってもその身の清さを弁明しないといいます。私は立派とはいえませんが、立派な人達から教えを受けています。私が心配してるのは、恵王が近くにいる家来のでたらめな話で心を曇らせ、疎遠な者の事を察せられなくなることです。それを案じて、この手紙を書きました。」と鄭重な手紙を恵王に送ったのです。この手紙を受け取って初めて恵王は、自分の行ないを悔いたそうです。
潔い態度を貫いた楽毅は、趙と燕から招かれる有能な賢者である客卿(かっけい)となり、趙で死んだといわれています。日本では楽毅の何百倍も有名な漢末の軍師・諸葛孔明が尊敬してやまなかった人物がこの楽毅だったといわれています。
「先ず隗より始めよ」とは、今日では、大きなことを始めるとき、まず身近なところから始めるべきだということになります。つまり、リーダーが自ら率先して、行動を起こし、方向性を示し、メンバーの士気を高め導くことが求められます。核兵器の廃絶や地球温暖化防止といった大きな社会変革に取り組む場合でも、先ずは身近なところから小さな変革を起こすことが、大きな変革へとつながるのです。
海軍大将だった山本五十六は、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」という人材育成における名言を残しました。
ここには、人材育成の要諦が詰まっています。先ず自分が率先してやってみせ、そのスキルの要点を言葉で説明し、頭でも理解させ、そうして初めてやらせてみて、褒めて意欲を高めることによって、人は自ずから育っていくものです。
明治維新の優れた人材を輩出した吉田松陰の松下村塾は、一方的に教え込むのではなく、対話を重視し、弟子たちと自由に意見を交わし合うスタイルを取っていました。これにより、塾生たちは自分の意見を表現する機会を得て、より深い学びができたといわれています。この自由闊達な学びのスタイルに魅力を感じた若者たちが、自ら求めて集まってきたといわれています。
松陰は、塾生一人一人の個性や意見を尊重し、お互いの信頼関係を重視し、自ら向上心、求道心を絶えず燃やし成長し続ける姿を示しました。松陰には、私利私欲も名聞名利もなく、その溢れんばかりの国家変革への情熱によって、若き塾生たちは、強い使命感を抱き、それぞれが国の未来に対して大きな志を持ったのです。
松陰が、獄中から高杉晋作に宛てた手紙には、「死して不朽の見込あれば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらば、いつでも生くべし」とあります。人間いかに生きるべきかに対する究極の指針といえるでしょう。だからこそ、攘夷へと疾走し蛤御門に倒れた久坂玄瑞も、奇兵隊を率いた高杉晋作も、維新の三傑と呼ばれた木戸孝允も、初代内閣総理大臣となった伊藤博文もそれぞれの使命を全うし生き抜くことができたのです。
あのソクラテスも「世界を動かそうと思ったら、まず自分自身を動かせ」と述べているように、何か大きなことを成し遂げようとするなら、まず自分に何ができるか、何をなすべきかを考え、実践しましょう。