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「タイパ」で本当に幸せになれるのか

▲ミヒャエル・エンデ『モモ』

 古今東西、全地球の生きとし生けるものに、24時間という時間は平等に与えられています。しかし、現代人は、なぜ時間が足りない、一日が短いと感じるのでしょうか。
 ミヒャエル・エンデの『モモ』という作品は、大切な時間をどう生きるかというのがテーマになっています。主人公で浮浪児のモモは人の話をひたすら静かに聞くだけの女の子ですが、話をした人々は、なぜか不思議と温かな気持ちになり、自分自身を取りもどしていくのでした。人々は時間にゆとりを持ち、満ち足りた時間をゆっくりと過ごしていました。
 そんな活気ある町に、時間貯蓄銀行から「灰色の男たち」がやってくると、状況が一変します。彼らは人々を巧みにだまし、人々から大切な時間を奪いました。人々は必至で時間を節約し、本当の意味での豊かさを失っていったのです。

 「タイパ」という言葉が大事な価値観となっている現代において、本当に「時間の節約こそ幸福への道」なのでしょうか。問題は、何のためにどう使うかです。時間を節約することで、本当は大事な別の何かを失うことにならないのでしょうか。自分の生活が日ごとに貧しくなり、日ごとに画一的になっては、何の節約だかわからなくなります。

 大人と子どもでは、時間の感じ方が違うことを裏付けようとした「ジャネーの法則」では、生涯のある時期における心理的時間は年齢に反比例するとしました。子どもは、一つ一つの出来事に、興味を持ち、感じながら生きていますが、大人は、大抵のことは、「ああ、いつものことか」と受け流しています。大した印象も残らず一日が過ぎ去っていくのです。この物語に登場する賢人マイスター・ホラは「時間は、心で感じとるもの」と言っています。見る、聴く、味わう、作る、体験するすべてのものに子どもの頃のあの感じる心(センス・オブ・ワンダー)を忘れなければ、生きることの空しさから解放されるでしょう。

 「タイパ」とは「タイム・パフォーマンス」の略で、ある効用、または満足感を得るにあたって、費やした時間に対する効果の割合を指します。最近、特にZ世代の価値観を表す語として象徴的に使われています。「タイパ」を重視するのは、「効率的に情報収集したい」「無駄を省きたい」、「作った時間でやりたいことがある」からです。一堂に会する会議や、紙の資料、遠距離通勤はSDGsの観点からも無くなりつつあります。
 「コスト・パフォーマンス」は主に金銭的なコスト面の効率のことで、増やしたり、貯めたりすることもできますが、時間はそれができません。限りある人生において、お金より、時間の効率をあげたいとすることは、むしろ歓迎すべきことのようにも思えます。
 しかし、一方で、それを追求する様子を見るにつけ、それで本当に幸せになれるのかという疑問を拭えません。例えば、報道番組やスポーツ番組を倍速で見る、名作映画やエンターテインメントをまとめ動画で観る、音楽のイントロを飛ばす、実際に人と会うことなく、SNSやオンラインでのみコミニュケーションする、時短グッズで家事を素早く終わらせるなど便利な世の中です。社会認識や生の感動、人間的な絆を削って、節約した短い時間で、何かを貪って手にいれても、永い人生において幸せだったと言い切れるでしょうか。

 「効率的に情報収集」する一つの方法として、ChatGPTを使えば、考える時間も、調べる時間も節約できますが、こんな落とし穴もあります。
 アメリカの弁護士がChatGPTで出力した判例を民事裁判の資料として使用したところ、虚偽のものであることが発覚し、問題となりました。正義と真実を求めるべき弁護士が、生成系AIの出力結果を安易に信じた悲劇です。多くの人が、生成系AIは質問をすれば何でも正しく答えてくれる魔法の仕組みだと思っていますが、それは間違いです。ChatGPTは、過去のある時点までのデータについてしか学習していませんから、それ以降の出来事に関してはまったく無知だといっていいでしょう。したがって、そこから最近の出来事についてデータや知識を得ようと思ってもできないのです。にもかかわらず、ChatGPTは、問いに対して、平気で答えを出してきます。「タイパ」は上がっても、結果は悲惨なものになるかもしれません。そうさせないために、時間も労力もかける必要があるのです。

 Z世代は自然に触れたり、映画や読書によって、それに没入し、感情移入した体験を持っていないだけなのかもしれません。単に機会の喪失で短期の「タイパ」に拘泥するようになっているとしたら、大いなる損失です。
 「タイパ」は、生み出した時間的余裕によって、人生がより豊かになるのでなければ、意味がありません。節約して、何を得るか、何を失うか、自己吟味できる人間でなければならないのです。

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