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「〇〇を知らないと恥ずかしい」考察


日本は「恥」の文化であると言われる。
調べると、アメリカの文化人類学者R. ベネディクト氏が『菊と刀』という本の中でそのように述べているという。
(一方、ヨーロッパやアメリカは「罪」の文化であるらしい。)

今回はこの日本文化である「恥」を初等教育の視点から考える。

問:次の〇〇に当てはまる言葉は何か。
(〇〇の文字数は問わない)

「〇〇を知らないと恥ずかしい」

様々な回答が考えられる。
多く考えられるのは、常識的知識や、マナーの類である。
知らないことが「常識外」だからである。

ICT関連のことを書く人がいるかもしれない。
環境関係や国際的なこと、SDGs関連のことかもしれない。
常識、普通に満足しない、感度の高い人などは「流行」と答えるかもしれない。

改めて、学校教育に関連した内容で、ここについて考えてみる。

例えば、算数・数学を知らないことは恥ずかしいだろうか。
一時期、分数の計算ができない大学生が話題になった。
決して望ましいとは言えないが、恥ともいえないように思える。
実際、教育が遅れている国においては、大人でもそれらが満足にできないという人は少なくないという。

そもそも、算数程度の内容であっても、きちんと理解して説明できるという人はそう多くない。
円の直径、面積はなぜあの公式で求まるのか。
分数の割り算はなぜ「ひっくり返してかける」という演算の形になるのか。
6÷3という式にも等分除と包含除の違いがあることを説明できるか。(6を3つに分けるか、3つずつに分けるかの違い)
等々。

こういったことを知らない場合、それは「恥」とは違い、単なる無知あるいは無関心(どうでもいい)であるともいえる。

漢字はどうだろうか。
よくクイズ番組では「これでもか」とばかり難しい漢字をばんばん書く&読む人が出る。
漢字検定の1級などに挑戦している人は、常識レベルよりはるかに書ける&読めるだろう。

程度にもよるだろうが、これも「恥」というより無知・無関心の類である。
ただ漢字が満足に読めないことは、知識を得る上で大変不便であるから、読める方が確実によい。
また、諸外国の人からすれば、ほとんどの日本人が漢字及び平仮名と片仮名まで操るという力は、驚異的ですらあるという。

中学以降の物理や化学の各種公式、記号や、社会の年号、地名などはどうだろうか。
正直、学生の頃に比べて、こちらはかなり自信がないのではないだろうか。
日常生活において、全く使わないから当然といえば当然である。
すらすら出てくることはすごいが、これも知らないあるいは忘れただけで「恥」とも言えなそうである。
(現に、ノーベル賞をとった科学者が)

さて本題だが、「歴史」はどうだろうか。

これは、歴史の授業のテストで年号を全然覚えられなかったとかそういう暗記レベルの問題ではない。

大人になっても、自国の歴史を知らない、語れないということ。
単なる事実や記号の羅列ではなく、ストーリーで語れないというのは、歴史を知らないということと同義である。
これは、文字通り「恥」ではないかと考える。
単なる無知や無関心では済まされない。

なぜか。
例えば外国人との会話の中で、突然何かを尋ねられたとする。
その時、数学の問題が解けなくても漢字を書けなくても化学記号を答えられなくても英語がすらすら喋れなくても、何ら問題ない。
一方、どの国の国民であれど、自国や民族の歴史を知らない、堂々と語れないことは、アイデンティティに直結する重大事である。
どの国でも、小さな子どもでも知ってるべきことを大人になっても知らないというのは、驚愕すべきことであり、軽蔑に値することだからである。

以前にも書いたが、この事実は教える側の恥である。
そして、罪のない子どもたちが、将来大人となった時に、正真正銘の「恥」となる。

これは、完全に教える側の「罪」でもある。
教育の中で、有害な罪の意識の方だけを連鎖させているともいえる。
虎視眈々と覇権争いを繰り広げ続けている諸外国にとって、非常に都合のいい国民である。

意識すべきは罪ではなく、恥のほうである。
自国の歴史をあるべき方向で認識し、世界のためにこの歴史の教訓を生かしていかねば、先人に対しても申し訳ない、恥であるという意識。
必要なのは、こちらの方である。

歴史の授業を初等教育段階、あるいはそれ以前からきちんと行うこと。
これは、言語教育と同じかそれ以上に重要なことである。
一昔前までよく言われてきた「読み書きそろばん」ではない。
ICT活用スキルでも英語力でもない。
自国の歴史教育こそが、日本の教育に断然欠けている要素である。

ここを打破する有効な方法の一つとなり得るのが、以前にも紹介した齋藤武夫実践である。

6年生担任や中学生の社会科担当なら、確実に活用できる内容である。
たとえ六年担任ではなく、そのまま実践できないにしても、歴史に対する知識は、ないよりもある方が断然いい。

ちなみに、小学校の低学年であっても、歴史の知識は大いに活用できる。
例えば、祝日の度にその意味を教えることができるのは、歴史の知識あってこそである。

最も直近の祝日である「秋分の日」は、日の長さが同じになるという天文学に基づいて設定された、世界的にも珍しい祝日である。
戦前、「秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)」と呼ばれていたという。
参考

(上記サイトより引用)
これは、歴代天皇ならびに皇族の霊をまつる儀式を行う日のことだ。昭和23(1948)年に「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日として、秋分の日と改名。日本国民の生活に深く根づく祝日となった。
(引用終了)

これと双極にある祝日「春分の日」は、太陽を神とみなしその恩恵である米を食して五穀豊穣を願い、自然を奉り崇める、日本ならではの祝日である。


歴史を知らないことは、恥である。
歴史を「知っている」というのも程度があるが、あまりに知らなすぎるのは、紛れもなく恥である。
本来小中学生段階で学べる程度の知識は、国民全員が身に付けておきたい。

歴史教育に力を入れている方が、全国に他にもたくさんいるかもしれない。
自国に誇りをもてるという回答が、せめて国際平均程度になればその事実の提示となるが、全くそうなっていない。
やはり、まだまだそこに大きな問題があるというのが現実である。

まずは、小学校段階からの突破。
歴史は、学べば学ぶほど面白い。
「日本に生まれてきて良かった」と心の底から感動する。
6年生で適切に授業をしたのであれば、どの学校でも確実に人気上位にくるはずの教科である。

国際的な常識を日本の常識にしていくためにも、歴史の授業改革から手をつける必要性を、強く訴えたい。

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