叱る勇気とは
「叱るは悪くほめるは良い」というのは、少し前には流行ったが、今ではすっかりなりを潜めた理論である。
ちなみに私は「褒めて伸びるのは普通レベルまで」というのが持論である。
(元々は、私のオリジナルではなく、友人の言である。)
次の本から。
この本の主張の中心は
「叱る」ことと「押し返す」こと
のバランスの大切さである。
以下は、この本を読んだ後の私的な所感である。
叱られない世界。
理想的であるように思われている。
これは、全くの誤解である。
人間は、誤る。
それは、叱られることによって気付ける。
教えられても、わからないことがある。
優しく諭されても、わからないことがある。
叱られて初めてわかることがある。
小学校において全く叱られないということは、端的に言って、不幸である。
どんなに「優良」な子どもであっても、誤った行動をとる。
むしろ、真面目な子どもほど、陰で、婉曲的に、知らず知らずのうちに意地悪をしてしまうという面もある。
あからさまに悪い行動をとる子どもの方が、よほど対処しやすいというのが真実である。
ここへの理解は、人間を相手にする仕事全般をする上で、大切なことである。
ここは「善魔」にも似ている。
誰にも言われないから、実は悪いことをしているのに気付けない。
勇気ある人に叱られて(指摘されて)初めて気付く。
学級担任に断然必要なのは、勇気である。
勇気とは、危ないことを恐れず突っ込むことではない。
危ないのに平気だと思ってやってしまうのは、単なる蛮勇でしかない。
「為すべきを為す」という実行力そのものが勇気である。
つまり、言うべきことを言う、というのが勇気である。
これは対子どもに限らず、対保護者、対同僚、対上司、全てに言える。
叱るというのは、愛情がないとやれない。
愛情がない場合は、叱っているのではなく、単なる憂さ晴らしである。
叱るということのベースには、相手を慮りながら、自身が傷つくかもしれない覚悟がある。
見返りを求めない行為、即ち愛情そのものである。
子どもに対しては、然るべき時に叱る。
相手は未完成で未熟でこれから伸び行く存在なのだから、当然である。
対若手にだってそうである。
私自身、言うべきことを言ってくれた諸先輩方には、感謝の念を抱いている。
ただし、伝え方は相手に応じて変える必要があり、そこが最も難しいところである。
(そこまで配慮した上で、もし恨まれたとしたら、それまでの話である。
その場合は、もう相手自身の課題であると割り切るしかない。)
叱るという言葉が、怒るとか憂さ晴らしとかと混同されているのが問題である。
然るべきは叱る。
別に怖く言う必要は全くない。
「それはいけない」と伝えるのが、叱ることである。
相手を慮って叱ることができるようになれば、学校は確実に変わっていくと思われる。