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英花伝書ー植物と人間の文化ー(芭蕉と禅仏教)#3

鐘消えて花の香は撞く夕べかな 芭蕉

夕方、寺の鐘の残響が残り、それと共に、桜の香りが鼻に匂うという情景。ここには、沈黙と静寂がある。

芭蕉の俳句は、自己の存在を消して、風景の情感だけを表す。

江戸時代の代表的な詩は俳句だが、現在、老人市民文学に成り下がっている。

高悟帰俗と言う芭蕉の考えに普通の人は至らない。

私は俳句は母から教わった。最高の先生だった。
しかし、芭蕉を読まなかったし、学んで越えようともしなかった。

5・7・5を読めば俳句になると思っている人もいるが、散文的な句になっていて、詩になっていない人が多い。

芭蕉は千語を口の中で選んで句を作ると言っている。

俳句をしている限り芭蕉を越えるのは無理だろう。

俳句の季語は俳句の美意識のもとであり、現在、言語ゲームと言って作っている人もいるが、間違っている。

俳句の先生に、夏井いつきさんというひとがいるが、俳句を映像と捉えて文法を駆使する。だが、芭蕉の俳句は心象を読んだもので、映像ではないですね。だからこそ現代でも、詩として通用するんですね。

ニーチェの「悲劇の誕生」には、

ただ、世界は美的現象としてのみ是認されている

アポロとディオニソスについて論じたこの書はニーチェの美学の本だが、その肯定されている世界を表現すること。

芭蕉は風景をただ読んだだけではない。

芭蕉は禅僧だった。禅の美学を理解していなければ、芭蕉は理解できない。
できれば、禅仏教の思想も知っておくことが理解につながる。

働かざる者食うべからず。味噌、醤油、たくあん、は禅僧が作り出したものだ。

精進料理も禅の食事だが、喫茶去などの禅問答で論理の飛躍を作り出し、覚醒体験につなげること。

禅の文学の世界、中国の漢詩の影響など、芭蕉を理解するためには教養が必要だ。

私は臨済宗の大徳寺で、大学生の頃下宿させてもらったことがある。

統合失調症で頭から首の神経がズタズタになり、鬱状態だった時、龍光院で掃除をして食事をさせてもらい、体を動かして回復した。

床を毎日全身を大きく使って、掃除した。体が回復した。床も輝くほど綺麗に美しくなるまで磨いた。

それが禅仏教の生活から導く美だった。私はそれ以上禅を学ぶ必要がなかった。

龍光院には国宝の美術品があったが、見ることはなかった。

牧谿(もっけい)の柿の図があった。ただ柿が三個並んでいるだけの書だが禅の美学の最高峰らしく、柿の書が間の空間の位置のバランスが、玄人の書画で、多分有名なので、写真もあるでしょう。

龍光院は、国宝の美術品や、天皇の墓があり、敷居が高くて、私はあまり近付くのが苦手でした。

龍光院は禅僧の生活の場なので一般公開はされていませんが、恩を受け、お世話になった。また遊びに行きたい。

禅は達磨大師が有名で、うろ覚えだが、ブッダに悟りとは何か質問した人がいて、拈華微笑を、花を持って微笑んだことをブッダは示しそれで一人の弟子が受け止めたのが始まりで、あくまで悟りを得るまで何年も僧堂に住み粗食で暮らす、自身は善良なことは全くしない。
私は禅は今の時代に合わないと思っています。禅仏教の権力者になる人が進む道で、獣道です。
禅寺で生活をしていたその時の和尚さんが今は亡き、紫野南嶺和尚で、鈴木大拙の一番弟子で、花園大学の教授だったかな、偉い人で、ユング心理学の河合隼雄さんや、知的生産の技術で知られる梅棹忠夫さんとも交流があり、彫刻家のイサム・ノグチの友達でした。

和尚さんに禅僧になる事を勧められたが、私には荷が重くて断った。
和尚さんは、私が悟っていることに気づいて、「先祖の霊が、蘇った」と言って驚いてくださった。

私は、和尚さんに、堀口大学の月光とピエロの曲を、歌った。音楽の道に進むといいと言われました。

和尚さんは、小堀宗伯の名で、鈴木大拙とエーリッヒ・フロムの「禅と精神分析」の翻訳をしていました。

関西では書家として有名で、書の本が淡交社から出ています。

龍光院を離れて、和尚さんの訃報を知ったのは新聞の訃報欄でした。

その後、もう一度、龍光院に下宿して、南嶺和尚のお墓は、大きな墓石でできたモニュメントのお墓でした。

和尚さんは一時期私の心の支えでした。西田哲学の相対と絶対という事を教えてもらった。

大徳寺は一休さんが立て直したお寺で、現在でも、臨済宗の大徳寺派の総本山になっています。

芭蕉の話から逸れたが、禅仏教の教養も知識として必要だと思います。

今日はこの辺で書き終わります。

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