何度でも目覚めてやる #スロー・フロー・ブログ
一つの社会、一つの文化の中で生きていると、まるでそこに迎合できないことを罪のように感じてしまう生きものが僕たちだと思っています ( 少なくとも僕はそうです ) 。
日本のように選択肢が無数にあるように見える社会でも、いくつものベースというか枠組みがあって、「そこからはみ出さないなら、自由に生きてもいいんだよ。」という条件が課せられている気がしてなりません。
例えば、こんなこと。
生きていくためにはお金を稼がなきゃいけない
学校に行かなきゃいけない
いい暮らしをするにはいい学校に行かなきゃいけない
いい暮らしをするにはいい会社に行かなきゃいけない
男はこうでなきゃいけない
女はこうでなきゃいけない
結婚は正しくて、離婚は間違っている
◯歳までに結婚すべき
結婚したら子どもを生むべき
死はネガティブなものだ
性的なことは恥ずべきだ
夢や目標を持たなきゃいけない
母親として弱音を吐いちゃいけない
父親として立派でなくちゃいけない
食事は三度とらなきゃいけない
計画があればその通りに実行すべき…などなど
こういう言葉にしないうちに刷り込まれた当たり前や常識は思っている以上に僕らの考え方や言葉、一挙手一投足に染み込んでいるようで、全体の秩序や個人のアイデンティティを守るためはそこから外れた自分や他者を平気で、( しかも無意識に ) 攻撃、排除しようとするキライがあるようです。
上に挙げたようなことを大切にすることは、素晴らしいことでも、批判すべきことでもないと思います。
ただ、それを絶対的な正義だと信じ込み、自分や他者を苦しめる要因になってしまっているなら、一度自分の深いところまで潜って信念を点検した方がいいかもしれません。
( 長い時間をかけてできた信念ほど、すぐには塗り替えられないという現実も目にしますが、方法はいろいろあると思います ) 。
これらの “なきゃ・べき” はある時代、ある世界では有効かもしれないけれど、いつでもどこでも正しいなんてことはまったくもってありません。
最善はいつも、変わってゆく。
僕はなぜ写真と出会ったのか。
最近、そんな問いに直面させられる出来事がありました。
問い続けた結果分かったこと。
それは写真の世界で生きていくためでなく、写真をきっかけにほんとうの自分に気づくためでした。
つまり、写真の中ではなく外に答えがありました。
100日目のブログでも書こうと思っていますが、写真だけでご飯を食べていくこと、生計を立てることを手放しました。
苦肉の策といえばそうかもしれないけれど、僕が撮りたいというか身体が勝手に動くほどの衝動に駆られたときにシャッターを押すことにきっと変わりはありません。
逆に言えば、それ以外でシャッターを押すことや依頼を受けてその通りに撮ることをやめたということになります。
自分にとって大きな投資だったSONYのフルサイズミラーレスカメラですが、今日そのカメラも手放してしまいました。
( もう少ししたら、フィルムカメラを友人から譲り受ける予定です。 )
これは失敗とか諦め、途中でやめてダサいと言われることかもしれません。
でも、最善のために、決定し直したのです。
カメラ代だけで見れば、投資した分をカメラで回収できていないので “損“ なのだと思います。
でも、写真の世界に入る前から体験し続けてきた、お客さんを奪いあったり、クオリティの高さでしのぎを削り合ったりすることに価値をまったく感じられませんでした ( もちろんそれが愉しめる人もいるけれど ) 。
そういう意味では、昨年の9月から始まったこの経験、いやこの10年は「戦いや所有の世界」にどっぷりだったと言えるかもしれません。
世界平和を謳った会社でも自己犠牲が蔓延していたり、誰もが尊重されることを願ったコミュニティで縄張り争い、戦争が起きたりしているのを見ました。
写真に出会う前からずっとこの文化には触れ続けていて、そこから抜けることはけっこうこわいのですが、もう賽は投げられました。
何度でも、何度でも目覚める。
アニメにはあんまり興味ないのですが、たまたま観た映画「鬼滅の刃 無限列車編」で下弦の壱・魘夢が炭治郎を眠らせ、炭治郎が「これは夢だ! 起きろ!」と何度も何度も目覚めるシーンが印象的でした。
まさに、僕たちが学校や家族、会社という社会で生きているうちにこれが正しいんだと暗にメッセージを受け、その世界から抜けられなくなる現象にそっくりです。
それは、メッセージを送る側の愛だったりするので ( そう見えるだけということも多いけれど ) 、余計に信じ込んでしまうんですね。
上記で触れたように、ここ数ヶ月、いやもっと長い時間、僕もいくつもの呪縛にかけられていたことに気づきました。
呪いは一度解けても、別の形でまたやってくるでしょう。
だから、何度でも何度でも目覚めてやろうと思います。
今の気持ちはとてもすがすがしいです。
心には、ほんとうはやりたいのに全力でやるのを遠慮してやらなかったあることが浮かんでいます。
また、何らかの形でシェアできるだろうか、分かりませんが。
とにかく、両目だけじゃなく全身の感覚を開けて今はそれを愉しみたいと思います。
今日はここまでにします。
お読みいただきありがとうございました!
noteを読んでくれてありがとう! 僕らしく、優しさのリレーをつなぐよ。