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土着の旅人でありたい #スロー・フロー・ブログ
※昨日に引き続き、自己探求的な記事です。ご興味もってくださる方だけ、お読み下さい♪
昨日、友人から受けたコーチングで、「僕はまだほんとうの自分を生ききることができていないし、自己刷新すればまだまだほんとうに観たい世界を観る余地がある」ということがよく分かりました。
もちろん、10年前と比べれば、ずいぶん生きやすくなったし、世の中の厳しさを知った分、優しさにもたくさん触れられました。
人の気持ちの理解もあの頃よりはできているはずです ( 無論、人の心を完全に理解できるなんて思わないし、そう思ったときは自分が進化することをやめたときだと思いますが ) 。
コーチングを提供してくれた友人の言葉。
あなたは、作品をつくる人じゃない。あなた自身が作品なんだ。もう、周りに合わせようとすることも、生活のために何かをすることも、やめてしまっていい。そんなのは僕たちに任せて、ほんとうは表現したいことを存分に表現してほしい。
彼からもらったこの言葉は、自分のいくつもの体験を結びつけてくれて、ありありと自分の中で真実として自然と受け入れられました。
写真も、必要としてくれるから撮ってきた。
料理も、おいしいといってくれる人がいるから作ってきた。
音楽も、人が求めている自分像に当てはまるように歌っていた。
※ただ、唯一文章を書くことに関してだけは、純度がとても高くて、僕が僕のためにやっていると自負しています。
それは間違いではないし、喜んでくれる人が確実にいたことは僕にとって励みになり、もっと喜んでもらいたいという自信に変わりました。
だけど、他者を基点に、何かを始めることはそこには少なからず、いや往々にして生活のためにやっている面もありました。
小学校時代にクラスのどのグループにも属さなかったことへの劣等感、中学校時代の一人でいることへの羞恥心が、それらを隠すように身に着けた言葉の力によって覆い隠され、「他者に合わせるのが善であり、自分勝手に振る舞うことやそれによって迷惑をかけることは悪である」というマントラを自分の内側で唱え続けてきたのだということに気づかされたのでした。
かっこいいさなぎか、蝶か。
ちょうど数日前、こんな言葉に出会いました。
元ソニーで工学博士として、犬型ロボットAiboを生み出した天外伺朗さんの言葉です。
「変容」というのは、ちょうど「さなぎが蝶に変わる」ようなものです。もちろん姿形は変わりませんが、重病を経て変容した名経営者は、それまでに比べて一段と高い精神的なレベルに達しています。
このとき、「さなぎ」には「蝶」を想像する能力はなく、 目標として設定することはありません。目標に向かって努力をするという方法論で進んでいると、いつまでたっても「さなぎ」のままです。もっと「かっこいいさなぎ」になれるかもしれませんが、「蝶」 には変容できないのです。
この調子で生きていくのもいい。
身も心も健康で今日も生きていること、日本に生まれたこと、おいしいご飯が毎日食べられること、挙げればきりがないくらい最高に恵まれています。
だけど、自分が大きく変容して観える世界をこの目で観てみたい。
一人ひとりが持ち合わせている得意なことや好きなこと、内側からエネルギーが滔々と湧いてくること、いわば誰にも求められなくてもやることを、誰もが分かち合う世界を観てみたいと思ってしまったのです。
僕は、土着の旅人でありたい。
僕はこういった約三年ごとくらいにやってくる変容のタイミングを迎えたとき、「何を始めるか、よりも何をやめるか」を大切にしている気がします。
自分の内側に向かっていくには、何かを足し算する ( 付け足す ) よりも、引き算する ( 剥がしていく ) ことの方が幾分有効に働くという直感と経験に基づいた確信があるからです。
今日、「土着の旅人」という言葉をふと思いつきました。
なぜそのように思うようになったかは、ここでは端折ってしまいますが、地域に根づいた暮らしを営む人でありたいのと同時に、世界に出てゆき、あらゆる民族やその土地土地の文化から学び、自身の表現をもって世界中の人たちとつながっていたい。
田口ランディさんの書籍に「根をもつこと、翼をもつこと」という本がありますがそのようなイメージです。
この数年で、ギフトエコノミー ( 贈与経済 ) やパーマカルチャー ( 持続可能な文化と暮らし ) 、コモンズという考え方、環境再生、ゼロ・ウェイスト、地域通貨、平和的コミュニティの在り方など、体感をもって学んできました。
そのどれもが素敵ですし、それぞれの分野でご活躍去れている活動家の方や農家の方々には尊敬の念が大きくなるばかりです。
ただ、僕が見たい世界はもっともっとシンプルなんです。
特別な知識もいらないし、危機に備えるといった動機でもない ( 結果的に、何か専門的な知識が役立ったり危機を乗り切る助けになるということはあるかもしれませんがあくまでそれは“結果的に”ということです ) 。
基本的には僕たちは食べて、排泄して、寝て、人と人とがつながって、コミュニティの大きさはまちまちでも子どもを育てて生きています。
それは、どんな時代でも、どんな宗教でも、どんなに厳しい環境下でも同じで、人がその日を暮らすという営みは変わらないはずです。
どれか一つでもかけたら僕たちは死んでしまって、次の世代に命をつなぐことができません。
自分たちの暮らしの輪を1mだけ広げて、助け合う。
遊ぶような感覚でできることをただ、分かち合う。
ただ、ただそれだけでいいと思うんです。
ああ、なんか書くエネルギーがここで1反出切ってしまった気がします(笑)
整理できた気持ちもあるし、もっと別の言い方で表現してみたい気持ちもあるけれど、今日はこのあたりにしておきます。
お読みいただいた方、ありがとうございました!
noteを読んでくれてありがとう! 僕らしく、優しさのリレーをつなぐよ。