写真好きがフォトグラファーとしてご飯が食べられるようになるまでの全記録|31日
おはようございます☀
昨日は、閉鎖するシェアハウスの片づけがおもしろいほど進みませんでした(笑)
というのも(言い訳に入ります)、「レンタルなんもしない人」さん(以下、レンタルさん)の著書が目に入り、読み始めると止まらなかったんです。
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レンタルさんにどんな依頼が来るのかは、ご著書やご本人のXをご覧いただけたらと思います。僕の興味を惹くのは、レンタルさんがただ存在するだけで、依頼者の心を満たしたり、自尊心を高めたりする事例がたくさんあることです。そして、一種の社会現象になっている。これはどういうことなのか。
それは、「なんもしないけど、価値を感じて経済的循環を生み出していること」が、ただいることを許さず、何かを生み出すことを強いる社会へのアナーキズムなのではないかということです。
DoingからBeingへ。
僕は大学で社会心理学を学んでいたり、カウンセラーとして副業的に働いてみた時期があったのですが、人は自分自身や他者をDoingとBeing(+Having)という軸で評価するそうです。
ビリギャルの先生である坪田信貴さんはこのようにおっしゃっています。
“人を評価するとき、その対象はDoingとHavingとBeingの3つがあると言われています。Doingは、行為に対する評価です。たとえば、「お風呂掃除をして、えらいね」というのがそうです。Havingは、持っているものや地位に対する評価です。「学級委員をやっているなんて、お母さんは誇りに思うわ」といったことです。Beingは、存在そのものに対する評価です。「あなたが何をしようがどういう状態であろうが愛している」ということです。ほとんどの親は、子どものことをBeingで愛しています。”
さっきも触れたように、学校にいても、会社にいても、下手すれば家庭にいても、僕たちは何もせず無条件でただ存在することを許されない存在でした。
高い成績、出席率、順位を求められ、高い成果、ノルマ、地位を強いられ、何かをすること、何かを獲得することが美徳であるかのように叩き込まれてきました。
でも、そういったDoingやHavingの根底に自分で自分のBeingを受け入れられていなければ、多分心が病んでしまいます。うまくDoingやHavingの獲得に順応した人でも、何もしなければ自分は存在してはいけないと思っていたら、それを維持するために走り続けなければならず、ずっと何かわからない欠乏感を感じながら生きることになるのだと思います。
話は戻りますが、レンタルさんは「なんもしない」ことをサービスにすることでその風潮を変えた人なのだと思います。だから、ほんとうはBeingを愛したい僕たちの心を動かすのではないでしょうか。
最近撮った写真(一部)
昨日読んだ本や記事、観た動画や気づきなど
noteを読んでくれてありがとう! 僕らしく、優しさのリレーをつなぐよ。