写真好きがフォトグラファーとしてご飯が食べられるようになるまでの全記録|21日
写真を撮ることを生業の一つにしようと決めてから、三週間が経ちました。
昨日の夜、友人のポートレート写真撮影と物々交換した2日間の箱根滞在を終え、横浜の拠点に帰って参りました。
友人の撮影は新宿で行いました。
僕は、人物を撮影する前に、相手の方の要望も聞いた上で何のために撮るのか、何を撮ろうとしているのかに想いをめぐらせる意識をしています。
これは、写真家の鈴木心さんがおっしゃっている「何のために写真を撮るのか、誰に何を伝えたいのさかという目的をはっきりさせる」という考え方を基にしています(1:15辺り〜)。
写真の用途は伏せますが、今回は「光と影が混在する場所、人々が無関心を装い行き交う場所、ディストピア感のある街の中で眼差す希望」を撮りたいというところに心のピントを合わせて撮らせていただきました。
写真のことを学ぶほど、いい写真に出会うほど、まだまだうまくなりたい!という気持ちは生まれますが、それと同時に着実によくなっている、よくしようとしている部分にも目を向けて積極的に「ええやん、おれ」とか「やるやん、おれ」とホメホメすることもとっても大切だと感じています。
例えば、カメラのモードをマニュアル(M)にして、手間はかかるけど、その都度入れたい光の量に対する「絞り」「シャッタースピード」「ISO感度」を指が勝手に動いて調整できるように練習し始めてから、写真のもつ重み、質感が多少増したように感じるし、撮りたい絵を写せる確率もほんの少しだけ上がりました。やるやん、おれ。
適当ラップのススメ。ラップは自分も知らない自分の願いを知る良質なツール
話は変わりますが、昨日の朝、ポロンポロンと持ってきたウクレレを弾いていたのですが、音楽を奏で、言葉を乗せることで内側の願いを知ることができるんだということを改めて感じたのでシェアしたいと思います。
何のために写真を撮るのか。僕は何のために今生きているのか。そんなことを言葉にしてみたくて、ふとウクレレのメロディに合わせてラップをしてみたんです。
ラップって、あれですよ。食品を包む薄くて透明なフィルムの方じゃなくて、リズムに乗せて日常生活のこと、社会的な主張、自分自身のことについて即興で言葉にしていく歌唱方法の方です。
誰かに聴かれていると恥ずかしかったり、意味のあることを歌わなきゃという意識が邪魔して言葉が思うように出なかったりするので、一人の空間でやるのがおすすめ。
楽器がなくても、例えばYouTubeなどでラップのビートや歌詞のない音楽などを流してそこに言葉を乗せてもいいと思います。
ただの遊びですから、韻を踏めなくても、歌詞の意味が通っていなくても、サビなんてなくても、飽きた瞬間にやめてもぜんぜんOK。
「Yo, Yo. おれはどう生きたいんだ〜」なんてありきたりな出だしから始めてみました。そのとき出てきた歌詞はほとんど忘れてしまいましたが、僕は自分を含めて「心の余裕」を生み出せるような作品をつくっていきたいのだということを自分の適当ラップを通して知りました。いや、言葉にできなくとも、もともと知っていたことなので思い出したと言った方が正確かもしれません。
心の余裕のなさから生まれる、苦しみや悲しみは誰しも体験するところだと思います。
でも、それは一曲の音楽、一本の映画、一冊の本、一言の言葉、一枚の写真によって拭われたり、癒やされたり、救われたり、忘れられたりします。
しかも、そのときに救われるというだけでなく、その作品にまた触れたり、思い出すだけで気持ちが楽になったりもする。
僕自身、たくさんの作品や言葉に救われてきたので、今度は自分がつくる側に立ちたいという願いが僕にはあります。
この写真を見た人に心の余裕は生まれるか。癒やされるか。安心感を感じるか。そのままの自分でいけばいいと思えるか。そんなことが僕が写真を一つのツールとして伝えたいことなんだということを改めて知ったのです。
というわけで、いつでもどこでも(あ、できるなら一人でいるときに)、お金をかけずできる遊びとして適当ラップをおすすめします!
今回撮った写真一覧
noteを読んでくれてありがとう! 僕らしく、優しさのリレーをつなぐよ。