バリスタという職業に誇りを持つ場所
中国は上海に来ている。8日間の完全隔離の真っ只中。最後に入国したのが2019年12月17日なので、約3年ぶりである。しかも1989年振りの大規模なデモが上海で勃発し、我ながら凄まじいタイミングで来てしまったと思う。
実は珈空暈(コクウンと読む)と名付けた会員制 / 招待制のコーヒーバーを密かにオープンしている。珈空暈とは、禅語からインスピレーションを得た当て字で、すべてのものの存在する場所を示す虚空と、空海が悟りを開いた時に見た月暈を珈琲とかけて珈空暈としている。(なぜ英語でコクーンと呼んでいるかは店に来るとよくわかる)
ひっそりスタートして約2年ほど経過するのだが、盛大に赤字を垂れ流しつつも、自分の納得できる形になるまで試行錯誤を続けている。
元々バリスタと呼ばれることが嫌いだった。バリスタ、というポップな響きに内包される未成熟なイメージに抗っていたからかもしれない。何より、そう感じてしまう自分自身が大嫌いだった。
今まで数多くの将来有望なバリスタが志半ばで辞めていった。口を揃えて言うのは「家族を養えない」という一言。家族も養えない仕事をしているのかと本当に悔しかった。
あるイベントで数百杯のコーヒーを1日トイレにも行けず提供しながら、ふと近くのコーヒーショップのメニューを見ると、自分の出しているコーヒーと価格が同じだった。
単純になぜだろうと思った。なぜ修行中の身と独り立ちした人間の出すコーヒーの価格が同じでなのだろう。
ゲイシャやオークションロットの台頭により、コーヒーの販売価格自体は上がっているように見える、がそれは原価起点の話であって付加価値創造の観点ではない。
コーヒーショップのPLは、主に杯数をベースに計算される。よくバリスタの給料が低いと持ち出されるが、コーヒーショップの収益構造上、トップラインが極端に低いため、中々人件費を上げることが難しい。
そのジレンマを抱えているからこそ、多くのスペシャルティコーヒー店は多店舗展開を推進し、利益を積み重ねていく。しかしその先には更なるジレンマが待っていて、店舗を増やせば増やすほど品質を保つことが難しくなってしまう。このバランスを取れるブランドはごく僅かだし、類まれな経営センスは求められるので、僕には難しい。
僕なりの解は通常のカフェ経営セオリーの真逆のベクトルに突き進むことだった。すなわち杯数を追い求めるのではなく、付加価値を徹底的に追い求めることにした。よって珈空暈はたった4席しかない。場所は非公開だが都内のプライムロケーション。今まで様々な飲食のプロに来てもらっているが、誰もが首を傾げる。でもそれで良い。
そもそもスペシャルティを多くの人に届ける必要はないと思っている。それは最高級の食材を多くの人に届けたいと言っているようなものだと思うからだ。スペシャルティがスペシャルティであり続けるためには、希少性と品質を業界全体で守ることで、一般普及を目指すことではないと考えている。そしてその最高級の食材をどう調理してお届けするのか考えるべき。この観点が抜け落ちている気がしたし、これこそが自分の責務だと思った。
スペシャルティコーヒーという世界最高の原材料を使わせて頂いている以上、その原材料は至高の空間と、至高の技術で調理され、そして美しく提供されるべきである。
珈空暈はコーヒーにおけるファインダイニングを目指す。素晴らしい食材を素晴らしい調理技術、空間、サービスで感動体験としてお届けするシェフと同じように、珈空暈は至極のコーヒーを井崎のフィルターを通して編集し、珈空暈でしか体験できない経験を創造する。
そんな自身の使命を胸に感じた時、改めてバリスタという職業に誇りを感じることができた。「後味の良いコーヒー、後味の良いサービス」ー 私がバリスタとして働く上で常に大事にしている言葉を添えて。