世界の半分

乃木坂46のことを好きになって、メンバーが出演する劇やミュージカルを観に行くうちに、すっかり観劇の魅力に取り憑かれた。
今では乃木坂ちゃん(=乃木坂46のメンバーを総称してそう呼ぶ)が出てなくても、乃木坂ちゃんと共演したことがある役者さんや、乃木坂ちゃんの舞台を手掛けた演出家さんまでチェックして観に行くようになった。遂には先日など、それらも関係なく、ただTwitterで宣伝が流れてきた劇をなんとなく面白そうというだけの理由で観に行ってしまった(笑)。

自分は舞台の何に魅せられているのだろう。
昔、姉が舞台役者(見習い)と付き合ってた時に、舞台の何が面白いのかと懐疑的に訊ねたことがある。だって映画の方が大掛かりで、映像効果も音響効果も本格的で大迫力じゃないか。それに対する答えは「ミスが許されない緊張感」だの「役者の息づかい」だの、映像作品をあまりに低く捉えた意見のようで全然響かなくて、その説明もあまり印象に残ってない。

だけど最近、姉が言いたかったのはこういうことなのかな、と思うようになった。一口に言うと「没入感」ではなかろうか。

映画館のスクリーンやスピーカーは確かに大迫力で、観る者全てを包み込んでくる。ただ、どんなに高解像度で精緻な映像であろうが、スクリーンに映し出された疑似世界を見せられているに過ぎない。
一方で舞台は、そこに生身の人間がいて、セットではあるが本物の物質を見せられる。それは紛れもなくリアルだ。過去の歴史や空想世界のものであっても、確かにその瞬間、作品の中の世界が現実として自分の目の前に存在している。その舞台を観ている間、自分は作品世界の中に埋没している。

さて。
僕の持論として「人は自分の人生を一度しか生きられない。『人生経験豊富な人』という言葉は、基本的に嘘」だと思っている(森博嗣さんの受け売りなんだけど)。
「お金があればいろんな経験ができる」とか「旅をしていろんな経験を積むべき」なんてステレオタイプな人生訓がある。だけど本当にそうか?だって金持ちは真に貧乏な人の気持ちも生活も理解できない。世界中を旅して回ってる人間は、生まれ育った村から一歩も出たことがない人間の人生を経験してない。
学生時代の海外留学経験を自慢する人がいる。けど、君が海外で遊び呆けてる時に、僕は汗水流してバイトに明け暮れて見知らぬ他人に頭を下げたり、車で国内のあちこちを旅したりもした。君にはそういう経験があるかい?と思う。経験の種類に優劣はないし、そこに優劣があるとすれば、経験から何を得たかで決まるのみだ。
経験というのは、生きた時間に正しく比例する。当人がその経験をゴミだと評価する場合を除いて、例外は無い。

そんなわけで、人は自分が見て触れたことしか経験できない。と思う。

だけど、物語(本でも映画でも舞台でも)に触れることで、自分以外の人生を擬似的に経験できるとも思っている。つまり、自分が直接触れた以外の経験を増やせるのだと思う。どのような創作物にも当て嵌まることではあるけど、舞台というのは没入感が強いゆえに、より深い疑似体験感を味わえるような気がする。

以前、あるセミナーで作家の京極夏彦氏が語っていたことだ。
「人は書物を読むと、現実世界とは別にもう一つの世界を頭の中に構築する。人の頭の中には、この世界と同じだけのものが広がっている。だから世界の半分は書物の中にある」
物語に触れると、人はその世界を想像して頭の中で再現する。すると、世界が倍に広がる。それまで自分が見たことのなかった景色、知らなかった景色が突如として目の前に出現する。これ以上にエキサイティングなことがあるだろうか。
僕が舞台に魅せられている理由はそれなのかなと考えている。


自分の知っている世界と、自分の知らない世界がある
自分の知っている世界と、自分の知らない世界しかない

僕がこの先の人生で実際に触れられるのは、永遠に世界の半分だけだ。
でも、叶うなら、残りの半分にも触れてみたい。

僕は自分が世界の半分しか知らなかったということを知るために、そして、残りの半分を知るために、これからも劇場に足を運ぶことになるのだろう。





(修正報告)
京極氏の言葉、世界の半分は「書物で出来ている」じゃなくて、「書物の中にある」のようでした。記憶違い失礼。

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英丸
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