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ダメな酒飲みの中年にならないために


酒を飲み始めて15年近くが経とうとしている。



20代の前半は週に2,3回も飲めば多い方だったのだが、ここ5年くらいは毎晩飲酒をしている。飲まずに寝る、というのが考えられないようなアルコール漬けの毎夜である。

だが、俺も30代となり、近年は酒によるダメージをひたひたと感じ始めるようになった。

深酒をすると、まず間違いなく二日酔いで翌日は使い物にならなくなった。

二日酔いが1日置いてやってきて、ひたすらにダウナーな平日を過ごさねばならないことも増えた。

さらに、近年特に顕著なのは、酒を飲むとやたらと人恋しくなってしまうことで、一人で飲んでいると用も無いのに誰かに連絡してしまったり、酒場にいる場合はやけに周囲の人間に絡んでしまったりしてしまう。よろしくないな、と思う。

そこで、自戒の意味も込めて

30代以降のいわゆる中年期を酒飲みはどのように生きていったらよいか

考えてみたいと思う。


30代ともなれば、色々なことを考えるようになる。

俺は果たしてどうなっていくのだろう。
仕事はしているが、昔のように無理は利かなくなった。
昔よりも趣味に打ち込めなくなった。
私生活では恋人もいない、出会いもこれといって無い。
親も歳を取ってきて、色々と心配だ。
何より、何も為し得ぬままに歳ばかり取ってしまう。

そして、平日は職場と家の往復で、疲れを和らげるために夜に酒を飲みながら独り言ちるのが関の山、休日はと言えば鋭気を養うことに専念する、そんなこんなで気付けば1週間、1ヶ月と過ぎていく。

思えば近年は1年というのが恐ろしいスピードで終わっていく感覚がある。過ぎ行く日々をしみじみ思う、なんて言うと洒落っ気もあるが、要はやるせなさで酒が進んでしまうというだけだ。

この時間のスピード感と生活の追い付かなさも中年をダメにしてしまう大きな要因と考える。



話は変わるが、よく道端で酔い潰れている人というのは、どうも中高年のおっさんが多いように思う。


彼らは終電間際の駅のホームで、飲み屋の片隅で、繁華街の道端で、歩道の植え込みで、電信柱の根本辺りで、桜木町で、こんなところにいるはずもないのに、と「まさよし」なトーンで歌いたくなるほどに様々な様態で人間的にグズグズな姿を世に晒していた。

昔は「ああはなったらいかんな」と思って、彼らを横目に帰り道を急いだのだが、最近は俺もそういう酒によってグズグズにされてしまっている中年になりかけている、否、すでにそうしたグズグズな中年になってしまっている、と思わされることが増えた。

例えば、週末の夜から酒を飲み始めるのだが、せっかくだからと盛り場に行ってもなかなかテンションが合わなかったり、周りの若い人達の勢いに押されて小さくなって静かに酒を飲むしかないことが多く、酒を飲みながら燻ることが増えたのだ。

たまに似たようなテンションの中高年のおっさんたちと意気投合し、しみじみと酒を酌み交わすこともあるが、そんなことは稀で、大抵は自分が落ち着ける場所を探して、飲み屋街をうろつくことが殆どだ。

そして燻ったままへべれけになってしまい、終いには呂律の回らない状態でタクシーに滑り込んで帰宅、前後不覚のままベッドへダイビング、そして翌朝は鬼のような二日酔いに苦しめられながら、財布の中身を確認して気分が落ちたり、どうにか食えるものを流し込んだりするうちに陽が落ち、結局1日を台無しにしてしまうような、そんなどうしようもない1日を迎えることになる。

そして震えながら月曜朝を待つことになる。そんな週末を何度過ごしてきたことか。

なぜこんなことになってしまうのだろう。

キーワードは「抑圧と解放」である。



まず言えるのは、俺を含めた労働者は大抵週末に休みがあって、その休みに向けて平日は心身をすり減らしていっているということだ。

どうしても労働者は仕事が1日の大半を占めるようになるので、仕事を生活の優先事項に置かなければならなくなるのだ。平日のうちは仕事のことを考えないわけにはいかないのである。平日のど真ん中から前述のような飲み方をしていたら、仕事に差し障るので労働者としてはやっていけない。

まず、ここに大いなる「抑圧」がある。この抑圧は現在の社会に生きていたら避けられないもので、ある種の絶対条件である。

そして、週末になる。長ければ2日間は仕事はしなくていいし、仕事のことはひとまず忘れることができる。

するとどうなるか。

「よし、さっきまで労働者だった自分を忘れて遊ぼう」となるわけで、これが「解放」である。

平日を耐え抜いてしまえば週末に遊べる、仕事を気にせずに酒を飲める、仕事を続けていくとそんな思考回路に陥ってしまうものである。

この「抑圧」が強ければ強いほど、「解放」はより反発力の強いものとなる。タガが外れると言い換えてもいいだろう。

これが、世の労働者が週末の夜にああやって羽目を外してしまう原因であり、終電間際の駅のホームで、飲み屋の片隅で、繁華街の道端で、歩道の植え込みで、こんなとこにいるはずもないのに、と人間的にグズグズな姿を晒してしまう大きな要因である。

また、この「抑圧」から週末への「解放」が起こりやすくなるもう一つの要因についてもお話せねばならない。



自明の理だが、1週間は7日間、平日は5日で週末は2日である。

つまり労働者である限り、どう転んでも「解放」が「抑圧」を上回ることはあり得ないのだ。

にもかかわらず、「ここしかない」と体力の続く限り遊びに打ち興じ、普段は飲まない量の酒をかっ喰らってしまう酒飲みというのは多いはずだ。

「どうしてそうなんの」と思われる方もいらっしゃるだろう。

どう転んでも勝ち目のない闘いじゃないか
もっと自分を顧みたらどうか
これだから酒飲みは

と思われるだろう。

しかし、である。

これも当たり前なのだが、この1週間のサイクルは1回限りではない。1年間、否、一生を通して回り続ける。

どういうことか。

「解放」の後には、また「抑圧」がやってくるのである。



働いている限り、若しくは仕事をリタイアするまで、この「抑圧」と「解放」のサイクルは延々と続くのである。

するとどうなるか。

言うのも野暮だが、先の「抑圧」を見なくて済むまで遊びに集中し、仕事のことを忘れるまで酒をかっ喰らうのである。

「抑圧」 → 「解放」 ← 次の「抑圧」

この「抑圧」の板挟み、ダブルバインドがあるために世の酒飲みは「ここしかない」という観念に囚われてしまうのである。

恐ろしいメカニズムである。

この板挟みこそが、週末にグズグズな人々を大発生させる方程式だと俺は考えている。

さて、ダメな酒飲みの思考回路の整理が済んだので、ここからは対策を練っていこう。



まずは、週末に酒を飲むことを止すことである。身も蓋も無いが、これが一番手っ取り早い。これができれば最善である。

次に週末に長時間の遊びの予定を入れてしまうことである。そうすれば下手な酒の飲み方はできない。次の日のことを考えて酒を減らすこともできるし、遊びでリフレッシュできる可能性もある。これが二の矢である。

第三にパートナーと一緒に過ごすことである。パートナーと一緒なら下手な姿は晒せまい。ある程度自制も利くし、パートナーが抑止してくれることもありうる。

ただし、パートナーまで重度に酒に耽溺する御方は、逆にパートナーとの過ごし方を改めた方がよろしいかもしれない。

と、ここまで書いてきてお気付きの方もいらっしゃると思うが、そんなことが出来ていれば酒を飲み過ぎることなんてないのである。

そうした代替手段が得られないから酒に耽溺してしまうのだ。

なので、

どうしても週末に「ここしかない」と飲み過ぎてしまう人に向けて、幾つかの考え方を提案したいと思う。


  • 週末にやたらと酒を飲まなくても、酒は逃げない。

  • その週末に遊べなくとも、遊びの予定はまた立てられる。

  • その夜に女を口説けなければ、一生セックスが出来ないわけでもない。

  • たとえ今週末が空振りであっても、来週に死ぬと決まったわけではない。

  • だから、「また来週に楽しみを取っておこう」という余裕を持とう。

狭まった考え方を解しましょう、というメソッドである。

さらに言うならば、他の方も「ここしかない」と週末に遊んでいるわけである。同じ思考の人間が多数居れば、当然競争相手も多くなる。

よって、その週末一点勝負でベットするのは非常にハイリスクなのだ。当然、一点勝負なのだから負けのリスクも高まる。

「ここしかない」と思っている時ほど余裕がなく、思考は狭く、視野狭窄に陥っているのであって、あなたが楽しめる余地がない、いわば酒飲みのレッドオーシャンに飛び込んでいるようなものである。

悪いことは言わないから、週末は「ここしかない」と思わないでほしい。

今日がダメでもまた来週、という感じで毎週末に節度を持って楽しんでいただきたい

そう思う次第である。



兎角世知辛い世の中にあることは俺も重々承知しているが、こうした考え方が読んでくださる御仁のお役に立てば幸いである。


俺も節度を持った中年期を過ごしていきたいと思います。

中年たちに幸多からんことを。


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