見出し画像

ざっくり戦後日本ポピュラー音楽史③の1

ざっくりとした戦後日本のポピュラー音楽史第3回。今回は1960年代について。

前回まで45年~59年は ↓



テレビから聴こえる歌

60年代前半のヒット曲としてまず思い浮かぶのが坂本九「上を向いて歩こう」(作詞・永六輔/作曲・中村八大)だろう。ロカビリー歌手として勢いのあった坂本九がソロ歌手として61年に発表、世界中でヒットを記録し、63年にはアメリカのビルボードで1位を獲得。まさに時代を代表する曲といえる。

そんな坂本九のブレイクにも影響したのが、64年の東京五輪に向けて家庭への普及率を上げていたテレビだった。
ナベプロが製作費を全額出して始まったフジテレビ『ザ・ヒットパレード』(59~70年)、同じくナベプロの協力で作られザ・ピーナッツやハナ肇とクレージーキャッツを売り出した日本テレビ『シャボン玉ホリデー』(61~72年、76~77年)、そして「上を向いて歩こう」を取り上げ数々の名曲を世に送り出したNHK『夢で逢いましょう』(61~66年)などの音楽とコントなど笑って楽しめるバラエティー番組の登場によってお茶の間を巻き込んだテレビスターたちが生まれた。
植木等を主演にクレージーキャッツのメンバーが活躍する「無責任男」の時代で、「スーダラ節」や「ドント節」などが大ヒット。
64年にはよく知られる形でのザ・ドリフターズも結成されており、進駐軍のクラブで演奏していたジャズメンである渡辺晋が設立した渡辺プロダクションの最盛期ともいえる時期である。桑田佳祐など後に日本の音楽界を牽引するミュージシャンが憧れた時代でもあった。

当時のスターたちは僕が子供の頃にはもはや大御所となっていたが、その雰囲気は日本テレビで放送されていた『THE夜もヒッパレ』などに残っており、ここからも安室奈美恵やSPEEDなどがブレイクを果たした。


ヒット曲

テレビが勢いを増していく中、世の中で人気を博した他のヒット曲には、
石原裕次郎・牧村旬子「銀座の恋の物語」(作詞・大高ひさを/作曲・鏑木創)
村田英雄「王将」(作詞・西條八十/作曲・船村徹)
美空ひばり「車屋さん」(作詞/曲・米山正夫/編曲・福田正)
中尾ミエ「可愛いベイビー」(作詞・Don Stirling /作曲・Bill Nauman、日本語訳・漣健児)
などがある。前回取り上げた50年代からの流れで美空ひばりは依然として輝きを放ち、石原裕次郎は三十代を目前にかつての映画でのイメージから抜け出していた。テレビという新しい娯楽の王様によって形を変えつつも、相変わらずの人気を博すスターたちはいた。

戦前からの流れをくむ古賀政男や服部良一といった作曲家たちも健在で、日本作曲家協会の設立や日本レコード大賞の創設に関わっている。


ビートルズ旋風

新旧入り混じる歌謡秩序の中でうまく回っていた日本歌謡界にも世界と同様の衝撃が走る。それが1962年、ザ・ビートルズのデビューである。
イングランド北西部マージーサイド州の古い港湾都市であるリヴァプールで結成されたこのバンドの登場により、日本のみならず世界の音楽シーンは一変していく。

エルヴィス・プレスリーを中心とするロカビリー的な音楽の流行は50年代から継続してあったが、それらは基本的に作詞・作曲者がいてバンドがいて歌手がいるという分業スタイルで構成された旧い体制だった。それを崩してほとんどの曲を自作自演で行ったのがビートルズだった。現在では当然のことのようにも思えるが、アーティストが自らの思いをそのまま歌詞にするということは革新的な出来事だった。
フォークの父とも呼ばれるピート・シーガーなどの存在はあったものの、リバイバルがはじまる前のことであり、爆発的な人気を博すことはなかった。

同じ62年にはザ・ローリング・ストーンズもデビュー。ザ・キンクス、ザ・スモール・フェイセスなどのバンドと共にアメリカではブリティッシュ・インヴェイジョンとして旋風を巻き起こし、現在も活動を続ける。

「Blowin' in the Wind」などが収録されたボブ・ディランの二枚目のアルバム『The Freewheelin' Bob Dylan』の発売が63年にあり、メインストリームにおいてミュージシャンが自作自演で音楽活動を行うことがメジャーになっていく。

日本でいち早くこの流れを掴んだバンドのひとつが、後に田辺エージェンシーを設立する田辺昭知率いるザ・スパイダースだろう。麻布のイタリア料理店キャンティの常連で作り上げたともいえるバンドは65年にメンバーのかまやつひろしによる楽曲「フリフリ」でデビュー。しかし売上げ的に成功したとはいえず翌年の7枚目シングル「夕日が泣いている」では浜口庫之助をっ作詞作曲に迎えている。この楽曲のヒットによってスパイダースも歌謡秩序の中に吞み込まれてしまう。ただ、田辺と堀威夫(ホリプロ社長)の関係の深さや喜劇俳優・堺駿二の息子である堺正章の存在もあり、はじめから芸能秩序の中にあったともいえる。
田辺をはじめメンバーの多くがその後の歌謡界・芸能界で表・裏問わず活躍していることから、後への影響も大きい。


ここまで書いて2000文字を越えたので60年代の他の事象、GSやフォークなど、そして全体のまとめについては次回書く。

いいなと思ったら応援しよう!