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映画を観た〈黒部とマイゴジ〉

昨日、Amazonプライム・ビデオで山崎貴監督・脚本による昨年公開の映画『ゴジラ-1.0』を観て、ものすごく違和感を覚えた。
それは、主演の神木隆之介や浜辺美波、佐々木蔵之介、山田裕貴だけでなく、群衆シーンの人々から元海軍軍人のモブに至るまで、一人として労働者の臭いを感じないということだ。血色もいいしすっきりとしている。もっと平たくいえば誰一人臭そうじゃない。
そこで二年ほど前、1968年公開の映画『黒部の太陽』(監督・熊井啓、脚本・井手雅人、熊井啓)を観たときのことをふと思い出した。


映画『黒部の太陽』ポスター

大正時代から始まり、太平洋戦争を挟んで戦後の電力需要の高まりによって当時の関西電力と熊谷組などの社運をかけて行われた「くろよん」こと黒部ダムの工事を描いた映画だが、今回はこの映画そのものの話・ネタバレ等をしたいわけではない。
もし詳しく知りたいという方はこちらの公式サイトへいってみてほしい。

木本正次による1964年の原作小説は読んでいないが、個人的にこの映画には心を奪われた。
それは三船敏郎、志村喬、石原裕次郎など名だたる主演級の役者の存在感もさることながら、クレジットに載っているかどうかも定かでない役者たちの佇まいに惹かれたからだ。そこには労働者の姿があった。
戦中・戦後の混乱を生き抜いてきたからだろうか。1945年の終戦から数えれば22~23年経っているはずなので、若い役者は終戦後に生まれた世代かもしれない。実際作中に登場する寺尾聰は1947年生まれなので丁度戦後すぐに生まれた団塊の世代に当たる。ビートたけしや細野晴臣もこの年代だ。


55年の年月を経て日本人はこれほど変化したのかと愕然とする。時代の変化と言えばそれまでだが、労働者を演じられる役者はもう日本にはいないのだろうか。
僕はそんなことはないだろうと思っている。今でも現場仕事のバイトをしながら役者を続けている人はいるだろうし、『ゴジラ-1.0』に出てきた役者にも肉体労働の経験がある人が少なからずいたはずだ。
では、なぜそれが画面に現れないのか。
観客が求めていないからだろう。

岡田斗司夫のいう「ホワイト社会」という言葉を引用するまでもなく、僕たちの暮らす社会は加速度的に漂白されている。
今回は映画をダシにして話しているが、芸能の世界だけでなく日常に於いてでさえ誰もが清廉潔白を求めるような社会がすぐそこまで来ている。それに対するカウンターとして宮藤官九郎脚本のドラマ『不適切にもほどがある!』が放映されたが、ことの趨勢は変わりそうもない。

例え映画の登場人物であろうと薄汚れて見える人間を現代の観客は受け入れなくなっているのだろう。多くの人に見てもらおうと思えば舞台が戦後すぐであろうと小奇麗にみえなければならないし、プラモデルのように敢えて汚しを入れていることがわからなければならない。

奇麗な言葉ばかり口から吐き、上辺のやり取りで取り繕う。そんな小学校低学年でしか通用しないような社会が本当に望まれているのだろうか。見せかけだけの多様性で根本は何も変わらないのではないかと思ってしまう。今日的な感覚で「悪」とされるものや感覚はいったいどこに行ったのか。SNSだろうか、それともみんな本当に親密な人間には打ち明け話のように泥を吐いているのだろうか。


「いいものは美しいはずだ」という感覚が僕はしっくりこない。かつて柳宗悦が語った真の美とも違う、どこかプラスチックのようなつるりとした味気ないものに思えて仕方ない。
間違いなくあったはずの人間社会の猥雑さなど決して美しくはないもの、昔の社会が受け入れていたものたちの居場所はどこにあるのだろう。偽物の多様性の中では息苦しくなる人はこれからどこにいればいいのだろう。

自分が生まれていない時代を美化するようなことは言いたくないし、現代のいいところもたくさんあるとは思っている。煙草のポイ捨てや痰壺なんかは絶対ない方がいい。それでも僕は過去にあったものが何か大切なものだったのではないかと思ってしまう。漂白されていく社会の中で曖昧な色を探しているのかもしれない。

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