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ざっくり戦後日本ポピュラー音楽史④

未明から雷がゴロゴロと鳴り空がピカリと光る荒天。昨日から天気が悪くなる気配はムンムンで、気圧のせいもあり頭が痛い。頭痛持ちにはつらい時期だ。

何のためだかよくわからない戦後邦楽のざっくりまとめも前回までで60年代が終わり歌謡曲黄金期の70年代に入る。が、今回は歌謡曲までたどり着けそうにない。




学生運動の挫折とフォークの終着点

よしだたくろうの登場

60年代半ばから関西を中心に社会運動と交わりながら力を着けてきたフォークソングのアーティストたちも高田渡らの活躍はありながらも、二度にわたる岡林信康の蒸発や社会運動そのものへの熱量の低下を受けて元来の形を失っていく。

「フォークの神様」と呼ばれた岡林と入れ替わるように登場し、脚光を浴びたのが70年にシーンに登場したよしだたくろう(吉田拓郎)である。
71年に開催された第3回全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)において商業主義へ反発する思いと共に「人間なんて」を繰り返し歌ったことで一気に求心力を高めた彼は一躍フォーク界きっての人気者となりフォークを大衆化させた。
関西フォークのミュージシャンたちが標榜したものとは違いその歌詞は個人的で抒情的なものが多かった。賛否の分かれるところかもしれないが、結果的にそれまでよりも多くの人に彼の音楽は届いたし、後進のミュージシャンたちに道を開いたといえる。

フォークと軌を一にするように巻き起こった学生運動などの社会運動も72年の「あさま山荘事件」をピークに勢いを減退させていく。社会への疑問を投げかけるような歌は鳴りを潜め、運動に参加した大学生は、その多くが髪を切って就職していった。

たくろう以降~井上陽水

よしだたくろう以降フォーク的な音楽はメジャーシーンでヒットするようになり、多くのミュージシャンが商業的な成功を収めていく。その中でも大きな存在といえるのが井上陽水だろう。
70年を挟んでアンドレ・カンドレとして挫折した陽水は72年発売のファーストアルバム『断絶』によって当時の音楽愛好家たちにインパクトを与える。内ゲバなどの問題を孕んだ社会運動が下火になっていく当時の世情と、大きな虚無感を個人に落とし込んだような陽水の歌詞世界は親和性が高かった。熱が冷めていく寂しさのようなものが漂っているように今の僕が聴いても感じることができる。
そして73年12月にリリースされた三枚目のオリジナルアルバム『氷の世界』では日本初のLPレコードでの売り上げ100万枚突破という成果をあげる。これは陽水の曲と歌詞世界の素晴らしさもさることながら、時代と共鳴したことも大きな要因だったのではないかと思う。

四畳半フォーク

陽水と同じ時期に活躍をはじめた我が県出身の偉大なアーティストである南こうせつとかぐや姫はしばしば「四畳半フォーク」と呼ばれて侮られる。「神田川」をはじめとする貧乏な若者をテーマとして扱った曲が文字通り貧乏臭いと揶揄されるのだが、歌詞は職業作詞家である喜多條忠の手によるものであり、こうせつや伊勢正三の手掛けた作品とは色合いの異なるものであることは多くの人に知ってもらいたい。
ただ、そういった四畳半フォーク的な歌たちも当時の世相に寄り添ったものであり、それゆえのヒットだった。
四畳半的な曲としては他にもよしだたくろうの一部の曲やあがた森魚の「赤色エレジー」などがあげられる。特に「赤色エレジー」については、学生運動の盛り上がりにも寄与した白土三平の「カムイ伝」が連載された漫画雑誌『ガロ』に連載された同名の漫画がモチーフとなっており、同棲時代を代表する曲だといえる。

その他のヒット曲

こうした時代の中でフォークはメジャーシーンで人気を獲得して多くのヒット曲を世に送り出してきた。中には職業作家が手掛けたGAROの「学生街の喫茶店」のような名曲ではあるが文脈上語りにくいものから、今では俳優やタレントのイメージも強い泉谷しげるの「春夏秋冬」、後にロックバンドとして大成するRCサクセション「ぼくの好きな先生」、フォーク的手法の枠に収まらない楽曲を揃えたアリスによる数々のヒットなど、本当に多くのミュージシャンが日の目をみた。

ブームの終焉~その後

よしだたくろうが72年の「結婚しようよ」で大きく商業音楽側に振れて以降、多くのアーティストとヒット曲を世に送り出したフォークブームは70年代後半になると失速する。
ひとつの事件と呼べるほどにインパクトのあった75年のフォーライフ・レコードの設立や井上陽水のマリファナ所持による逮捕など世間の耳目を集める出来事は多くあったが、演歌などの歌謡曲、そしてニューミュージックの波に呑み込まれてしまった。その後80年代に村下孝蔵のヒット(彼のルーツは別のところにある)、90年代の終わりにゆずの登場によってアコースティックギターを強調した音楽の復権はあったものの、本格的なフォークソングはメジャーシーンには上がってこないままだ。

しかし、美空ひばりの最後のシングル「川の流れのように」の作詞やAKB48などのプロデューサーである秋元康からはフォークソングへの憧れを強く感じることができるし、THE ALFEEの坂崎幸之助やなぎら健壱など当時の空気感や音楽そのものを現在に伝えるような仕事をするアーティストもいることから、精神的な部分では現在でも引き継がれているといえる。


ロックの流れ

ニューロック

ビートルズが解散した70年を軸に前後して、世界的に新しいバンドが台頭していた。レッド・ツェッペリンやディープパープルなどのイギリスのハードロックやストゥージズのようなバンドが表舞台に現れた。
それに呼応するかのように日本ではGS時代のスターを集めたPYGや、フォークよりも過激に社会運動と近づいた頭脳警察、沖縄出身で本格的な音を鳴らした紫、過激なライブバンドだった村八分などが登場。PYGはかなりの失敗に終わったが、他のバンドは当時の若者から支持を集め、現在でもYouTubeで特集映像などを見ることができる。

はっぴいえんど

この時期に活動したバンドの中で現在最も知られ影響を与え続けているのがはっぴいえんどだろう。
彼らは岡林信康や遠藤賢司などのフォーク系ミュージシャンとのセッション、共演をこなしながら70年にファーストアルバム『はっぴいえんど』(通称ゆでめん)をURCレコードからリリース。このことからもわかる通り初期は関西フォーク勢との繋がりが強いバンドだった。当時からメンバー4人ともにミュージシャンとして高い能力を持ち、バッファロー・スプリングフィールドを手本としたサウンドに乗る大瀧詠一と細野晴臣のボーカル、ほとんどの歌詞を手掛けた松本隆の内省的でありながら重さと軽やかさを併せ持つ日本語詞の世界が濃密な音楽世界を練り上げていた。

このアルバムの発売からいわゆる「日本語ロック論争」に巻き込まれ、『新宿プレイマップ』上や『ニューミュージック・マガジン』の誌上などで内田裕也をはじめとするロックは英語で歌うものだと主張する側に難癖をつけられ困惑する羽目になる。

そんな論争とは名ばかりの難癖もセカンドアルバム『風街ろまん』の登場によってほとんど消えてしまう。このアルバムについては多くの場所で語られつくしているから僕が書くようなことは特にない。日本ロック史に燦然と輝く金字塔だ。

メンバーそれぞれのその後の活躍についても世間の多くが知っているだろう。
鈴木茂はギタリストとして多くのセッション、レコーディング、バンドで演奏してその腕を遺憾なく発揮。松本隆、大滝詠一、細野晴臣は80年代以降もそれぞれに、松本は職業作詞家として、大瀧と細野は自分の興味の赴くままに活動しながらもプロデュース業含め社会的なインパクトを持つ音楽を制作していく。


今回取り上げたバンドの他にも、同時代には矢沢永吉擁するキャロルのようなバンドもおり、非常に面白い時期だ。

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